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第二百十六回: 本当になりたいもの
私の周りで一番ワリに合わない人生を送った人は、と尋ねられれば伯父となる。伯父にはしばしばコラムに登場させて申し訳なく思う。幼少より神童と謳われ、合格確実と言われた東大に落ち、早大から電電公社に入社した。社費で博士号を取得し、マイクロ波の研究で実績を上げ、フランスに留学した。公社では真藤総裁の壊刀として奔走した。NTT次期社長として注目されるようになり、1980年代、VANに関する国会審議でも参考人として招致された。昭和の終わりから平成の初期まで、町会で桑原と言えば父の実家の洋品店を指し、NTTの方の桑原と言うと伯父のことだった。「凄いねえ、いずれ社長だね」と誰もが誉めそやした。
順風万帆だった伯父を陥れたのは、M資金を名乗る詐欺集団だった。損害金額は僅かだったが、印鑑証明と実印を押した書類は出てこなかった。計画的に失墜を計画されていた。次期社長を狙う他のライバルや、伯父をねたむ別の派閥に、大袈裟に問題にされた。伯父は技術職だったせいもあり、政治的危機管理は苦手だったのか。結局、副社長でNTTを去ることになった。
伯父は勤めている間、親戚の付き合いも、ほとんどできなかった。子供の頃、私にとって伯父は珍しい海外のお土産をくれるが、本人は見たことのない謎の人物だった。祖母が危篤の時は、試験段階だった巨大な携帯電話を、後継ぎの長兄に預けて「いつでも連絡をくれ」と言った。そこまで家庭を犠牲にしてNTTの社長はおろかNTT DoCoMoの初代社長に内定していたのに、上記の問題でなれなかった。
稀代の才能をフル回転させて、前に前に、上に上に付暇を惜しんで働き、努力していた。 NTTの副社長と言えば、凄いことなのだと思う。誇りに思って良い立場なのだと思う。しかし、伯父のプライベートはその肩書のために、どれほどの失われたのだろうか。その我慢は見合うものだったのだろうか。
未弟である父は伯父に対しいつもコンプレックスと憧れを抱いていた。父にとって、天才と栄光と社会的成功の具現化が伯父だった。父が懐く、一族のプライドの大黒柱とも言うべき伯父が失脚した。父はポツリと「くだらないな」と言った。会社にささげた努力を言ったのか、はたまた伯父の栄華の儚さか。一つのミスで掌を返す会社の冷たさか。父の「くだらない」という一言は私に深く浸みついた。誉めそやした近所の人は、失脚した伯父の話題で持ちきりとなり、やがて忘れ去った。
私は一つの決論にたどりついた。「組織の立場のため、組織の肩書きのために身を粉にするのはやめよう。本当に必要としている人々、事案に対して働こう」と。仕事では桂古流のいけばなを伝え広めていく事、また私と同じ思いの人々と活動する事が増えた。還暦が差し迫ってくると、私に残されたピークとしての能力、時間は、そう多くない。最も重要な事案は何なのか。祖父、父がしていた仕事はどういうものなのか、やっと理解できるようになった。
日常では「生徒様が第一」の立場を貫こうと思った。会議の後や花展いけこみ後に企画される仲間内の懇親も心惹かれるが、展覧会の下活けを済ませ、最終調整で待っている生徒様に1分1秒でも長く時間が残せるよう心がけた。私の仕事は生徒様の笑顔に繋がるか。私はいつも相談にのり、教えてくれる活け花の先生になれているか、を行動の基準とした。
桂古流の皆様が望んでいるのは、流派が永続することである。その為に私ができることはた だ一つ、「滅私奉公」となる。文字にしてしまうと何の変哲もない事だが、ついつい忘れがちになる。
ラグビーというのはボールを前に投げない。横か後ろにパスを出す。相手を引き付けて自身がタックルを受ける直前にパスを出して繋ぐ。私はラグビーのパスの仕方が、いけばなに似ていると感じる。自身は倒れても次の代に繋げる作業が手渡せればそれで良い。
改めて伯父を振り返る。立場が上がると、信用できると思った人に裏切られたこともあったようだ。プライベートも幸せだったと言い難かった。それでも伯父の人生は楽しかったのではなかったろうか。電電公社出身の社員がほぼ引退した現在でも、伯父が全国で電話や情報が繋がるようにしたシステムは、後輩たちに渡された「パス」により発展し続けている。伯父は、やるべき仕事を全て済ませたのかも知れない。
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