第二百四回:
隠す美 見せる美
いけばなコラムを書いていて、私は大っぴらな性格なのかと自問することがある。コラムの構成は身近に起こった話題からいけばなへと関連付けていく進行が多いように感じる。その際にどこまで私生活に踏み込もうかと悩む。上っ面だけの話題でも詰まらないし、あまり私的すぎても読んでいる方が面白くないかなと気をもむ。あれこれ選別すると「まくら」に相応しい話題はそうそう起こらないと気付く。
ネタを探すでもなくテレビをぼんやり眺めている。広告の世界に就職したかったけれど叶わなかった者としては業界人以上に「どういう購買層、顧客年齢層を対象にしているのだろう」と作り手側の目で見てしまう。昼食にテレビを見ていると私と同世代の人をターゲットにしているようだ。化粧品、医薬品、衣類などの広告が番組の間に流れる。
ふと思い当たるのは「隠す美」に関するCMが多いことだ。関節痛をやわらげる薬は歩行の不自然さを隠すためと言えなくもない。CMではないけれど同世代の男性がフィットネスで背を流す時バンダナを巻いているのを見かける。頭髪が少なくて目に汗が入ると痛いからという理由もあろうが単純に隠したい人もいるだろう。
私は年齢のままを見せていくのが素敵だと思う。写真を学んでいた時に強く感じた。モデルは美しい。皆が憧れるのも理解できる。でもそれだけなのだ。美しい人を美しく撮るのは、球体を球体に撮るのと変わらない。モデルが撮影する人のために非人間的な造形に身体を作り上げてくれている。綺麗に撮れるのはモデルの努力であって、撮影者の力量ではない。モノクロームで本当に美しい写真は年齢相応の姿に撮ることだ。時を重ねていけばホクロやシミや皺ができる。ケガの跡や手術痕も写る。仕方の無いことだし、今まで耐え抜いてきた証だと私は考える。ツルツルより肌の年輪が感じられる写真はとても魅力的だ。植物も花が実に成り始めた姿は蕾とは違う魅力がある。枯れた葉は若葉とは異なる趣がある。時が刻んだ姿はそのままで良いのではないか。
これは私自身の考えであって押し付けるものではない。隠す事で前向きに生活できるなら素敵だと思う。会長が顔のシミをいっぺんに取ってカサブタだらけで帰って来た時は、転んだのか、喧嘩したのかと驚いたが、自身のお金を自身のために使うのは他人がとやかく言う事ではない。若々しくいるために多くの人が努力し工夫する。成果が出れば喜び、上手くいかなければがっかりする。
隠す事を是としたのは私たちの生活でも見かける行為だったのではないか。結婚式は隠す必要がなくなったから行うもので、「披露宴」の披は開く以外にあばく、打ち明けるという意味がある。露も同意だ。招待状の「婚約相整い結婚式を挙げることになりました」となるまでは、時に密やかに事を進めることもある。家屋でもかつてのように塀を高くする造りは減った。いまでは塀がなく道路から上手に家へとアプローチしている外溝が多いようだ。袖萩祭文の父と隔てられた心情を「この垣一重が鉄(くろがね)の」という台詞は古典歌舞伎や能の世界となりつつある。白壁とガラスの瀟洒な邸宅が上品にもこれ見よがしに立ち並ぶ。
いけばなも見せる美があれば、隠すことで保たれる美がある。主役になる枝や花の周りは思いきった空間が必要になる。筋を見せたい箇所は両脇の葉を整理し際立たせるようにする。一方根元は根隠しの言葉の通り隠す事で土壌から若草が生えてきた様子を表現する。面として足元を捉える。花材はそのままでは形にならない。人の手が入ることで初めて人目を引くようになる。
白龍は先代華慶が好きだ。華慶が酒席で幹部と一緒に歌を歌っている写真を見付けると、慌てて隠している。隠す事で華慶の威厳を保つと共に、会長の機嫌も損なわない様、苦慮している。
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