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第二回: 知識は消化するもの


私は本当に「師匠」持ちである。両親や学校の恩師はもとより、実際は会社時代の先輩や
他流の先生でも親身になって私に力を貸して下さる。この方達も私にとっては師匠である。


大事な師匠がたくさんいるのだが、そのうちの一人に、或る日こんなことを言われた。
「新藤君、人が一生の間に自分のアイディアだけて作り上げたもので、かつそれが素晴ら
しいものなんて、いくつもないんだよ。それより昔の人や異業種の人のアイディアを基に
どこまで自分流に仕立て上げるかが、大事なんだ」と。


この一言はショックだった。この師匠は私の大学の先輩であり、茶道・華道・歌舞伎・弓
道・陰陽道・日本料理などその他諸々に精通しており、しかも探求心と遊び心を忘れず、
確固とした自らの世界を持ち、独自の風雅を創造できる人だからだ。
断っておくがこの師匠の説明はお世辞ではない。この師匠に出会うまで、私にとって退屈だ
ったお茶席や伝統文化をこれほどスリリングに、そしてエキサイティングに演出した人を
他に知らない。


そんなオリジナリティあふれる師匠から「オリジナルなんて大した事ないし、いくつも思いつかない」なんてことを告白された私は、これからの人生の指針が音を立てて崩れ落ちていくような気分だった。しかし今、冷静に考えてみるとやはりこれは真実なのである。
ここでポイントなのは、すでに有るものをどこまで自分流に仕立てるか、という点だ。
例えば論文というものも、知識の丸写しでは形にならない。その事件に対してオリジナルの視点で、どれだけ完成した理論を組み立てられるか?が、大事らしい。


ある専門分野の研究員が学生に論文を書かせる時も、詰め込んだ知識を吐き出すだけでなく、どこまで消化して自分のものになっているか注意するそうだ。コンピュータによって知識が手軽に収集できる現代ではなおさらである。
「視点のみにこだわり過ぎて独自の結論が出せない学生の論文は、書物をつなぎあわせたことにしかならないんです。それは論文でなく、研究ノートというレベルなんですね。」と語った。


知識と論文の関係は花材といけばなによく似ている。「活けたい!」と思う意欲と基本的な
デッサンなり完成予想図がなければ、いくら花材が揃っているからと言って活けられるもの
ではない。これは絵の具と絵画、食材と料理など様々なことに言えるのではないか。
森繁久弥は「セリフは覚えたままではいけないんです。一度ぜんぶ忘れないと。自分の言葉になりませんから」と言っているのもうなずける。
もちろん知識がなく、創作意欲だけで物は出来上がらない。


デパートのイベントで、ファッション・デザイナーが作った茶道具が陳列されていた。一般人には大変ウケが良かったようだが、茶道の専門家は、がっかりしていた。「あれだけ面白い発想の茶道具は見た事もないです。しかし本当にもったいないですなあ、商品として売ることはできませんから。基本的な部分さえ勉強してくれれば、あんな不衛生な道具にはならなかったのに」と。


昔、著名人に花を活けさせた本が小学館から出版された。テレビにも出てくる有名なフランス人が活けた秋草を見て驚いた。
四種類で活けてあるのだ。和風な花は奇数を中心に活けるのは、どの流派でも基本である。これは華道が陰陽の上に成り立っているのだから当然である。奇数が陽、偶数が陰であるからだ。特に四は死に繋がるので出来る限り使わない。最近では洋花が増え、自由花が幅をきかせ始めたといっても和風な花材は奇数がお約束である。せめて四種類は避けるように誰かが教えてあげれば、彼女は縁起の悪い花を活けずに済んだ。


タブーを知っていて敢えてそれを破るのと、何も知らずに振る舞うのでは、同じ破るのでも大違いである。林家三平が天才とされるのは、落語家の家に生まれながら落語のタブーを壊していったからだ。古今亭志ん朝について柳屋小三治が「あの人(志ん朝)は一度外交官になろうとして、落語から離れている。落語の世界しか知らない私はその分だけかなわない」と吐露したのも、外側の知識と見識から独自の落語を成立した志ん朝への憧憬だろう。


創作意欲だけでも知識だけでも新しいものはできない。知識を自分のものとして消化し、そこから何かを作りだそうとした時、初めてできるのだ。

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