第十回:生徒さんのお花を直すとき
いけばなの教場は、お花のお稽古をするところです。ということはお花は最低2回は触られます。1回目は生徒さんがいけている時、2回目は先生が直しているときです。1回目の花は生徒さんが選んでいけているわけで、どこをどう切ろうが曲げようが生徒さんの技術あるいはセンスにまかせています。しかし2回目は先生が生徒さんのお花をより美しくしなくてはなりません。生徒さんのいけたかった形を理解し、技量やセンスを知り、できれば失敗した場所も見ておかなくてはなりません。
そう考えると手直しの花というのは、生徒さんのお花を先生が直すのでなく、先生のレベルを生徒さんがチェックできる時ともいえます。
これは私が先生になってつくづく感じることです。
教え始めて間もないころ、母親の代稽古で出張したときのはなしです。他人のお弟子さんというのは同門でも緊張するものです。母親がどんな教えかたをしているか分からないままで、はたから見るより私自身ピリピリしていました。それでも何とか雰囲気をなごませながら、華道部の部長さんの花を手直ししたとき、私が「…ですから、こうしたほうが良いでしょう」というとその部長さんは黙って首をかしげたままズボッといきなり花を抜いて帰ってしまいました。私は何を悪いことしたんだろうとショックを受けてしまいました。後からきくとこちらが気にするほどのことはなかったのですが、しばらくは生徒さんの手直しするのがゆううつだったものです。
生徒さんの花をみるとき、まず第一に手直しされるのが嬉しいのか、口だけで教わるのが好きなのか知らねばなりません。口だけで直されているのに慣れている生徒さんの花を全部ぬいていけ直してしまうと自信喪失するときがあります。一方手直しされるのに慣れているお弟子さんに口だけで直すのは物足りなさを感じさせてしまいます。この判断がけっこうむずかしいです。
また剣山にささっていない形では一本だけ直すということができません。手直しするならば最初からとなります。投入れや立ち活けは「ごめんね」といって全部抜くしかありません。ただし完全にそのままを復元することはできません。こちらの考えと生徒さんのイメージの妥協点をさぐりながらいけます(のほほんとしているようで、けっこう気をつかいます)。
それと怖いのがどこに深いキズをいれたか分からないときです。きれいにのびた枝先をちょっと触ったときボロッと取れてしまうときがあります。生徒さんが「そこのキズ重傷でしたあ?」とか言われるとおもわず「先に言ってよお」と泣き言をいいます。
だから生徒さんのお花を直して「先生、すごく素敵になりました」と言ってもらえると本当に嬉しくなります。仕事したなあという気分になります。
家元の代わりに古典華の研究会をみているときは、みんな幹部なので、私は普段どおりにしていても心臓がバクバクしています。私が子供のころからお稽古に来ている人たちの花を触るのはやはり度胸がいります。
こういうとき「私が父に稽古をつけてもらわなくては」と一番反省するのです。
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