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第百二回 いともたやすく

 忌野清志郎がいなくなって好きな歌声は一青窈だ。初めて「ハナミズキ」を聞いたときは心底ふるえた。もっともこの時に歌っていたのは一青窈でなく、都未生流の大津光章先生だった。2番の「どうぞゆきなさい お先にゆきなさい」という部分で不覚にも涙した。歌い終わったあとで「大津先生すばらしいですね。ひさしぶりに人の歌をきいて泣きました」というと住職でもある大津先生に「新藤はん、褒め上手だね。ええお坊さんになれまっせ」といわれた。
 いきなり話が横にそれた。その一青窈である。カバーアルバムを出した。当代一の歌唱力をもつ彼女の曲はどれをとってもオリジナルに匹敵する完成度だった。
 ただ一曲をのぞいては。

 それが美空ひばりの「リンゴ追分」だった。

 ひばりの歌声は、一青がいうように「上手だなあ」と何度聞いても思ってしまう。それは私が素人だからかと思ったが、プロから聞いてもそう思うらしい。一青はひばりの歌を通常のスピードより遅くして何度もきき、練習したという。そして感じたことは「最適な音を最適なタイミングでいともたやすく出せる」ひばりのすごさだった。
 このいともたやすくという「軽やかさ」が上手かどうかの分かれ目である、とおもう。「いともたやすく、軽やかに、単純に、遊びながら…」芸において、これらは迷いがないからできる。
  芸はあまりに重々しくガチガチの緊張だらけではよろしくない。人前に立つのだから、それなりの準備や打合せは必要だが、ほどほどの力の入りようがいい。芸を披露する時は、人前に立って緊張しながら、しかし緊張も含めて楽しんでいる自身がいないといけないと思う。ややこしい表現になってしまった。
 一青が練習に練習を重ねたリンゴ追分のエエエ〜エエエ〜という部分。聴き比べるとあの一青ですらガチガチに緊張した歌声なのである。リンゴ追分を前にひばりの存在感が、知らず知らずのうちに一青の足をすくませたのかもしれない。


 先日文楽をみる機会があった。二人三番叟だった。これは能の「翁」を文楽に移したもので天下泰平五穀豊穣を祈願したとものと紹介される。人気の秘密は、観ていて楽しい激しい動きとユーモラスな所作にある。特に激しく舞っているうちに、お互いが疲れどちらもスキをうかがっては踊りをさぼろうとするところが見所となのだが、人形遣いの息のあったところを見せる場でもある。
 この日、人形遣いが二組(六人)出てきて踊りだす。主遣いは白髪の先輩格と黒髪の若手である。はじめて見る私にはどちらも同じように見えた。そのうち先輩の踊りだけスーッと眼の前に浮かんできた。主遣い自身は大して緊張もせず淡々としている。しかし人形の首の振りかた足の上げ方が生きている人と変わらない。一方、若手の人形遣いは人形の作りは派手なのに人形より主遣いばかり目立ってしまう。先輩の方は涼しげに踊り、若手の方は汗だくである。最後まで若手の踊らせる人形は人形のままだった。芸は怖いなと思った。


 私は立ち活けをいけている最中、夢中になっていて細かいことに気が向かない。植物とのやりとりが楽しくて仕方ないのだ。適度に緊張はするけれど、楽しさの方が増して「さあ、どういう完成体になるか」とワクワクしている。下活けはザックリしかつくらないので、細かい枝の調整はアドリブできめていく。その時間が最高に楽しい。
 黙っていけることはなく、周りの助師さんとコミュニケーションをとりながらいけていく。ボソボソフムフムと話しながら手を動かしていく。よその流派はお手伝いの人を怒鳴っていたりするが、そんなことはしない。真剣に活けていれば周りの音など気を取られるはずはない。
 たやすいとは思わないけれど、あまり枝を見て迷わなくなった。いけ終わってしまうと遊び道具がなくなったような寂しさを覚える。ここまでは祖父に似てきたと思う。自流他流問わず褒めてくだる人も増えた。

 けれど、自身の作品には不満だらけである。それなりには上達しているのだろうけれど、まだまだ祖父の真似の域を出ていない。技術も到底かなわない。祖父のように究極の芸の上で、迷いなくいともたやすく遊んでいる立ち活けには一生ならないかと不安がよぎる。美空ひばりと一青窈くらいの差か、あるいはもっとか。私のことを褒めてくださる周りの人々に笑顔で応えながら、祖父との距離が一向に縮まらないことに焦りと苛立ちを感じている。

 

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