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第百十二回 セッション

 いまこのコラムはRCサクセションを聞きながら書いている。お読みになっている方々にはご縁のないグループかも知れない。1980年代に人気のあった、うるさくやかましいバンドだった。
 私は父七世華慶に生前迷惑をかけた覚えはない。しかしRCサクセションは本当にうるさかったのだろう、また理解不能だったのだろう。夢中になっている私を何とかならないのか、という顔でよく見ていた。或る時、父が「RCサクセションの忌野清志郎が自分の両親の話していたぞ」ととても恥ずかしそうに話しかけてきた。多分父は私がいなければ一生知ることもなかったバンドだろうし人物だろう。何故かとても申し訳なく滑稽に感じたのを覚えている。

 RCサクセションの音楽は「活ける」という行為に似ている。演奏というよりお互いが競い合うように音を奏でるからだ。キーボードにドラムがぶつかり、そこにギターがかぶさり、ベースがゆさぶり、トドメに清志郎の歌声がかみつく。バックコーラスやサックスがからまる。最初から最後まで一定のレベルでない。安心して聞いていられるような完成品ではない。まるでらせんを描くように音楽のレベルがのぼり詰めていく。演奏の始まりと終わりではまるで別人のようにレベルが違うのだ。
 これは一言でいえばセッションという行為に他ならない。危険なハラハラするせめぎ合いである。自分の能力を限界まで引き出すことで相手の魅力もギリギリまで高める。自分について来られるか相手を試しながら、今度は相手の力量に呑まれそうになって慌てる。
 私はセッションにおいてはRCサクセションやローリングストーンズしか分からない。が、セッションの素晴らしさは演劇や伝統芸能にもあるのだろう。三浦しおんが文楽のことを書いた小説にはまさしくセッションの素晴らしさが書かれている。

 私たちいけばなを活ける者もセッションを楽しんでいる。花材とのセッション、器とのセッション、会場とのセッション、隣に活けている人とのセッション…そしてそれを見ている人とのセッション。
 活けているうちに夢中になるのはセッションの空気に引き込まれているからだ。「うわ、そうきたか。」というときもあるし「ならばこれでどうだ。」と思う時もある。これは闘いに似ているが闘いではない。どちらが勝つとか負けるとかそういう話ではない。お互いギリギリまでせめぎ合いながら一つの物を作り上げていくからだ。

 大磯うつわの日の何が楽しいかというと、大野先生、山田先生という最高のセッションいけばな作家と富田啓之様というこれまた若手トップの陶芸作家がいる。流派とか肩書とかかなぐり捨てて本気でセッションするに相応しい舞台がある。

 ライブで花を活けている最中の私を撮った写真を見せてもらった。我ながら凛々しかった。普段を知っている昔の学友には「かっこ良すぎ」と不評だった。

 

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