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第百十七回 現代いけばなで肝に銘じること

 私は盛花にも投入にもアレンジにも、もちろん立ち活けにも属さないいけばなを制作することがある。しかしそれは現代花だとは思っていない。それは何の花型にも属さないいけばなの「無所属の会」であって現代花ではない。そういう私の花を見て「現代花ですか、すばらしいですね」と言われることもある。褒めて頂いたことには素直に感謝する。しかし既存のカテゴリーにおさまらないからと言って即現代花とか、いけばな芸術にするのは早計だろう。

 現代いけばなは素材を用いて「今」を切り取ってくる作業である。過去でも未来でもなく今。今、今を追い求めていく。同じ日が2度と来ないように同じ現代いけばなもない。あってはならない。ワンパターンもあり得ない。
 現代いけばなは、ひらめきである。「今」を今らしく表現できる方法がひらめけば、あとは実際に作業するだけである。ひらめきのきっかけがつかめれば、それほど苦しくない。逆にひらめくまでは、枝一本挿せずウンウン苦しむことになる。

 現代花を教えるという行為に、いまだに私は自信が持てない。私と違う人にどうきっかけを教えればいいのか。それが相手にとってベストな選択なのか。年齢・嗜好・性別なにもかも違う人が切り取る「今」が私と同じなはずがない。
 私が自身の制作過程を作例として話すことはある。しかしそれが現代花を教えたことになるのか、それは相手の求めていることではないのではないか、という不安がある。私の中には現代花は教わったり習ったりするものなのかという疑問がくすぶっている。現代いけばなは一緒に研究する気持ちを持たないといけない。

 いけばな界の美徳でもあるのだが、習われる方はその多くが従順である。指導者の言うことに疑いを持たない。古典花と同じように現代いけばなはにおいても「型」があると思い、家元や指導者の方のみを真似てしまう。残念ながら現代花だけは違う。自分自身で構想し制作しなくてはならない。いけばな造形大でも技術を紹介してくれたり美術史についての講義はあった。が現代いけばなをこう活けなさい、という授業はなかった。
 むしろ教授陣も手探りで本気で批評してくれた。いけばな造形大で一番大きな行事が日創展という展覧会だった。新宿野村ビルの地下に大きな作品を学生全員が出品した。酷評され泣く者もいた。私の出しだ作品は、褒める先生と批判する先生に分かれた。お互い相いれず激論になってしまった。現代いけばなの評価は今と密接につながっている。今は次の瞬間に過去となる。だから評価は刻々と変わる。

 昔お笑いグランプリでツービートが出ていた。審査員の南伸介に酷評された。お笑いとしてネタが汚い、毒がありすぎると。私は南伸介の批評も理解できた。けれど時代はツービートを求めていた。その後のビートたけしの活躍はご存知の通りだ。
 現代いけばなを考える時、南伸介がツービートを酷評した場面を思い出す。私はお弟子さんに「大御所にけなされるような作品を作りなさい。彼らが理解不能な、評価できないくらい新しい基準の作品を作りなさい」と言う。その作品のきらめきに同調した一部の熱のある人によってブームは起こっていく。

 現代いけばなは常に自分自身を否定し続け、今に合う花を考え続けていくことこそが原動力だと思う。新商品の開発とか広告デザイナーに似ている。

 

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