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第百二十回 雑という字

 40年前、10代の時に出版された『私の釣魚大全』という本がある。釣魚大全と言いながらアルザックウォルトンの釣魚大全とは違う。文体もユーモアも品格(失礼)も。開高健の著書だ。
 開高の文面からは緑の香りがする。草や木や川や池などの生の姿が目に浮かぶ。里山なんて格好いい言葉でなく原っぱ。原っぱの記憶が映像になって甦る。原っぱは一歩足を踏み入れるとどうなるか。バッタやコオロギが雑草の根元から飛び跳ねる。キチキチ音を立てて逃げていく。それだけで心躍る。これは特別なことではない。私の同世代ならば誰もが知っていることだった。


  残念ながら浦和駅前には原っぱはもう存在しない。雑草の生えている場所が全くない所に住んでいる不安を私は感じる。決して濃い自然を求めている訳ではないのだ。せめて雑草が生えている原っぱがあればな、と思うのは現在の浦和駅前ではお笑い種だろうか。古びた家が取り壊され、息つく間もなくお洒落な住宅に姿を変える。新しい家族が引っ越してくる。需要のある地区が原っぱになるわけがない。
 どこの街の話か、未だに思い出せない。誰の所有でもない狭い土地があると周りの人たちでお金を出し合って買い、自治公園として運営しているとのことだ。そういう公園がいくつもあるという。何と贅沢な羨ましい話だろう。それで守られた樹木や集まる鳥たちの下でお茶をするのだそうだ。日本では或る地主が土地を寄付するから公園にしてほしいと行政に頼んだところ、そんな勿体ないことするより売ったほうが相続税対策に良いと言われた。他人様の土地の悩みで私が口出しできないが、大人2人が手をつないでようやく抱えるほどの幹回りの大樹を、あっけなく切り落とし無味乾燥な物が建つと何とも殺伐とした気分になる。


  私は何を求めているのだろうとふと思う。大自然か原生の森かはたまた熱帯の密林か。どうもそのような「大それた緑」ではないようだ。そういう手の届かないご立派なものでなく、実生活の延長線上にある緑に深い愛着を感じる。それは「雑」という字に集約される。

 雑草。私にとって雑草は悪口でない。それは身近な、手元にあるというニュアンスが付く。高嶺の花の逆で、気の置けない普段付き合いのできる植物なのだ。ススキやマツヨイグサ、オシロイバナ、セイタカアワダチソウなどが混在している原っぱの緑の風は、何物にも代え難い。刈られてすぐ伸びてくる生命力の強さも魅力だ。冬場に枯草となり焼かれる煙も風情がある。豊潤な土地に繁茂する雑多な植物ゆえの魅力がある。

 雑木林、素晴らしい場所だ。松林や梅林のような風格はないけれど土地の層の厚さを感じる。足元がフカフカしていた。実は私が子供の頃でさえ雑木林は希少であった。カブトムシの集まる所はと聞かれデパートの屋上と答えたのは私たちの世代だ。天然のカブトムシなどそうはいなかった。クヌギやコナラ、シイなどが生えている場所は本当に限られていた。カブトムシもいたがスズメバチもいた。秋に落ち葉がたくさん降ってくると甘酸っぱい香りがした。たまに連れていってもらった森林公園は、今より落葉樹が多くて雑木林の香りがした。

 雑魚。これも良い。釣りキチ三平という漫画がある。この魅力は雑魚釣りである。雑草にまみれて雑魚をつる。野山を駆け巡り自然と一体化した三平が釣り上げる雑魚の躍動に惹きつけられた。大道具でなく最小限の釣り道具で豊かな川で雑魚釣りをする。今や宇宙戦争より非現実的かもしれない。開高も釣りキチだ。ペンより竿が似合う。他界して30年経つ。あの世で飽きることなく雑草の影から雑魚をねらって竿を振っていることだろう。

 雑学。高校時代から雑学が大好きだった。いけばななんて雑学の極みみたいなもので、何の役にも立たない。 けれど実学にはない豊かさがある。世の中の真理というか機微というか。大事と思っていたものがある年齢に来るとそんなに大事じゃなくて、思いもよらないものが必要になったりする。嗅覚を効かせる時に雑学は大いに役立つと思う。


  いま、この文章を読んでくれているあなた。最近雑草を見ましたか。雑木林に行きましたか。雑魚を捕まえなくても甘露煮やつくだ煮を食べましたか。役に立たない雑学に熱中していますか。この文章を読んでいるあなたの機械にたくさんの「雑」が詰まっていますように。あなたを雑の世界に誘う雑然とした魅力がいけばなにありますように。

 

 

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