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第百二十六回 消えゆく逸品

 自身お酒に詳しくもないし、強くもない。舌が敏感だとも嗅覚が利くとも思えない。取り立てて能力がある訳でない私さえ虜にしてしまう。ヌマタさんには困ったものである。ヌマタさんとは20年来の付き合いになる。仕事が一区切りついたり考えが行き詰ったり…日常の些細な変化の現れた時にヌマタさんのところへふらりと行く。ヌマタさんは寡黙である。私が黙っていればいつまででも放っておいてくれる。それでいて話し始めると私の話題を思わぬ方向へと展開し、知らない世界へ導いてくれる。

 忙しい時に無理は言わない。客足が途切れた時、私はヌマタさんにリクエストする。「疲れています。美味しく酔えてスッと寝られるのをお願いします」と薬局に行けとツッコまれそうな事や「前回来た時の最後に飲んだラベルの下に赤い小さいアルファベットの並んだお酒」と記憶テスト並みの注文をする。ヌマタさんはウーンとうなり、考え、首をひねり「困りましたね」と小さくつぶやく。しかし目は楽しそうに洋酒の棚を見ている。ショットグラスに生のウィスキーを注ぐこともある。カクテルの時もある。シンガポールを旅行した話をしていたら「私のシンガポールスリングも飲んでください」と出された。こんな茶目っけも楽しい。
 ヌマタさんの本領はウィスキーの知識である。大学風に言えば洋酒大学ウィスキー学部シングルモルト学科専攻の教授となる。私と言う出来の悪い生徒を根気よく教えてくれる。

 シングルモルトは一つの蒸留所から製造された蒸留酒である。シングルモルトとグレーンという2つの蒸留酒が組み合わさってスコッチウィスキーが出来上がる。それ以外に細々と規則が決められているが割愛する。飲む側としてはシングルモルトとグレーンによりスコッチができる。それだけ知っていれば良い。
 シングルモルトのたしなみを私はヌマタさんに仕込んでもらった。親が子に食べ物を教えるように、ウィスキーの美味しさを教わった。ヌマタさんは長年の経験から一つの変化に気付いていた。二十年以上前に一斉にシングルモルトがおかしくなった。何というか口に含んだ時芳香の拡がりが少なくなり始めた。それも一部でなく、シングルモルト全体がある期間を境に変わり始めたという。ヌマタさんにとっては非常にショッキングな出来事だった。原因が分からず色々調査したが結局分からなかった。
 その事を私に知らせるべく「特別授業」が開講される。まずは現在売られているシングルモルトを一杯飲む。美味しいし香りも申し分ない。満足している私を見てヌマタさんは「では十年前のものを。これでも私が働き始めた頃より力不足なのですが」とつぶやきながらショットグラスに半分ほど琥珀色の液体を注ぐ。私は水で前のお酒を洗い流してから十年前のシングルモルトを口に含む。喉までいっていない。含んだだけだ。 さっきと同じ銘柄とは思えない。シングルモルトの華やぎが前後左右上下に突き抜ける。明るく優しいのに鋭さと重みも兼ねている。パワーが違う。私の驚いた顔にヌマタさんは「でしょう。こんなことなら大昔に何箱かまとめ買いしておくべきでした」と笑った。私が思わずもう一杯というと断られた。どのようにしてこの酒を手に入れたのか尋ねると「これはですね。お客様で私が常々シングルモルトの変化を嘆いているのをご存知の方から」と話し始めた。その方が友人と話している時頼まれたそうだ。「不要な洋酒がキャビネットに残って困っている。家族は誰も飲まない。君は洋酒好きだから持って行ってくれないか」。その方は喜んでもらいに行き、その中のシングルモルトをヌマタさんに届けたという。ヌマタさんは締めくくりに「こういう逸品は楽しみますとそれだけ消えてしまうもので」とグラスを拭きながら言った。最近では古いウィスキーを高値で引き取る業者も出てきた。読者のお宅に眠る邪魔だった洋酒が思わぬ小遣いになるかもしれない。

 いけばなはどうだろう。隙のない、枝先まで緊張感の走った立ちいけは「消えゆく逸品」になっていないだろうか。私の手は、指は、本当に逸品を継承できているのだろうか。今の家元から立ちいけが詰まらなくなったなどと嘆かれないように精進しないと。
 直径四センチのグラスに揺れるシングルモルトを楽しみつつ、首を竦めた。

 

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