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第百三十一回 下積み

 芸の世界は下積みをして身に付けていくと私は仕込まれた。多分こういう仕込まれ方をした最後の世代だと思う。今はブラック企業だパワハラだと大騒ぎになるようなことが「アシスタント」と名の付く者に日常的に行われていた。

 大学4年の夏(就職したくて)必死にアシスタントカメラマンをした。デザインスタジオなど残業・早出・徹夜は当たり前。怒鳴る、三脚で殴るなどカメラマンの機嫌次第でとんでもない目に遭った。私だけではなく似たような目に遭っているアシスタントがデザイン・マスコミ関係には多かった。

 出版社の写真部でアシスタントしていた時は優しいカメラマンだったが、仕事はハードだった。出張撮影の時はタクシーにカメラマンと編集者とコーディーネーターさんと私との4人が乗る。トランクにはカメラ用ジュラルミンケースとライトやコードやフィルムの入ったバッグとストロボ用ジュラルミンケースが入る。私達のすき間に三脚がたくさん入ったカバンとバック紙やトレペや反射鏡などが入った筒と(料理撮影なので)敷物や箸などの小物の入ったケースを押し込んだ。体を全く動かせずに飯田橋から鎌倉雪ノ下の?先生のお宅まで行った。着いたらすぐに撮影準備に取り掛かる。カメラマンは料理研究家の先生に気に入られることが大事だった。さいわい私は?先生に可愛がられていた。撮影中は食べ物も水分もほとんどに取らなかった。帰りのタクシーでカメラマンが買ってくれるビールを楽しみに我慢した。夜9時過ぎに撮影が終わった。気付いたらその日が誕生日だった。?先生は誇り高い先生だったが私と同年齢のお孫さんがいた。気の毒に思った?先生がおにぎりを握ってくれた。

  なぜか私は下積みする分野に縁がある。写真以外でも下積みが多かった。父の育成方針もあったろう。祖父の溺愛が私の土台を作ったとしたら、父のスパルタが私に柱を立てた。片方だけでは私は出来上がっていない。父は体罰などしなかったが厳しい人だった。甘やかされてダメになりそうな私を、厳しい方へ厳しい方へと導いた。父は私を「他人の中で」成長するよう仕向けた。「桂古流」とか「新藤」というブランドの通じない所で育てたがった。

 小学1年から剣道の合宿に行かされた。剣道は嫌いでなかったが県立武道館で寝かされるのは恐怖以外の何物でもなかった。10歳の時には1週間の船旅で晴海ふ頭から北海道まで往復した。小学生から高校生まで700人の集団生活だった。高校2年の時にアメリカ西海岸にホームステイさせられた。させられたと言ったら罰が当たるが、父が社会奉仕団体に入っていて、内々に準備していた。私のことを半ば強引に行くようにしてくれた。本当は感謝しなくてはいけない。恥ずかしいが英語が話せるわけでもなく帰ってきた。海外も良いが日本の文化や習慣が一番良いという私の根幹部分ができ上った。大学卒業とともに華道を本格的に始めると思いきや、伊勢丹に就職させられた。させられたと言ったら罰が当たるが、父の意見や助師さんの進言で内々に準備されていた。人気の高い所に就職できたのに申し訳ないが、本当に売れなかった。売り場に立たされていてもお客様から手洗いの場所か時間を聞かれるのが関の山だった。

 伊勢丹の下積み時代に一度バイヤーに愚痴を言ったことがある。どうすれば物が売れるか分からないし、そもそもなんでお客様が商品を買っていくのかもわからない、と。もう辞めて家に帰りたい気分だった。バイヤーは静かに「お客様の声、商品の声に耳を傾けたことがあるか」と言った。続けて「お客様は漫然と伊勢丹に来るわけではない。目的があってわざわざ来てくださる。わざわざだ。雨の日も冬の日もわざわざ来て下さるのだ。その方々に『ようこそ』という気持ちをこめて接すれば自ずと対応が違う。お客様の真の声が聞ける。商品も多くの人の知恵が集まってできている。謂わばメーカーの自信作が百貨店に集まっている。商品を生み出したの方達の工夫や熱意をどこまで私達がお客様に伝えられるか。そこに気付くと楽しい。」彼の言葉が身に沁みた。

  白龍もまだまだ下積みの身だ。 私の教えられなかったところを他流の先生が教えて下さる。申し訳なくありがたく思う。 下積みの努力しない限り世間様は認めない、その事を父は教えたかったに違いない。

 

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