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第百三十二回 勝っても負けても

 体を動かす競技は良いなと思う。一定のルールの下で勝負に決着がつく。人気競技ならば公衆の面前で雌雄を決することも多い。勝ったときは天にも昇る思いだろうし、負けた時は「ドヨーン」という言葉以外思い当たるものがない。それでもまた勝負に挑むのは努力の結果が目に見える形で味わえるからだろう。

 次男は柔道をしていた。1999年生まれの次男は3才で柔道を始めた。2004年のアテネオリンピックの時すっかり魅了され、自分の将来は柔道選手だと思いこむようになった。 
 6才の時、県大会で優勝した。しかしその直前に行われた市大会では決勝で同じ道場の子に負けた。市大会の前に県大会の選考会が行われていたので、負けても県大会に出場できた。次男にしてみれば市大会のリベンジもあった。県大会に勝つことでプライドを保つことができる。負けるわけにはいかなかった。埼玉県の子供が集まっての大会なので人数も多く、そう簡単には終わらなかった。ようやくベスト16まで行った時、次男が審判のところに行き何か質問しに行った。審判の先生も答えてくれている。試合会場には降りることができないので、後で何を話していたのか聞こえなかった。次男は「あと何回勝てば優勝ですか」と尋ねていた。その試合にも勝った。準々決勝、準決勝ともに一本勝ちだった。次男は夢を目標にそして現実にする距離感覚を持ち合わせていた。
 決勝。相手は次男の倍近い体重の子だった。次男は攻め続けた。大きい相手と戦う時、守ったら負ける。何度も背負い投げを仕掛けた。相手は次男に手こずった。勝負というのは強い弱いだけでは決まらない。攻め続けることで攻め癖が付き勝ち癖が付く。強いからと相手の技を受けていると、守り癖が付き負け癖が付く。この試合はまさにそうだった。残り1分を切った時相手の監督は慌て始めた。次男は手を緩めず最後まで攻め続けた。当時は延長戦がなく旗判定だった。次男に旗が上がった時、嬉しさとともに涙が込み上げてきた。この子なりにどれほど苦しかったろう。6才児が重いプレッシャーを感じながら1試合ずつ戦ってきた。この優勝が次男の人生を決定づけたように思う。どんな困難も攻めることで乗り越えられる。

  小学校も中学校も思い通りにならない進路だった。けれど挫けなかった。次男はいつも逆境の中にいた。常に上を目指そうと努力していた。ゆずの「栄光の架け橋」がこれほど似合う生き方をしているのも珍しい。柔道の大会はその後も出続けていた。小4の秋の大会では優勝筆頭に挙げられながらベスト4で終わった。私は道場の親御さんに謝った。不甲斐ない成績ですみませんと。その時一人のお母さんが私に言った「準決勝、すばらしいではないですか。どうして讃えてあげないのですか。ベスト4で謝られたらこの大会に出場すらできなかったうちの子はどうすれば良いですか」胸に突き刺さった。私の謝罪は傲慢から出ていた。次男にも自身のためではなく、たくさんの仲間の想いを胸に戦うよう話した。次男は毎朝階段を2階から31階まで往復走っていた。それを倍に増やした。打ち込みも苦しくて時に吐きながらでも続けた。全ては大会に出られなかった仲間のために。
 半年後の春の大会、次男は相手によって戦い方を変えた。準決勝で前回負けた相手に当たった。力で押してくる相手を丸めるように投げた。そして決勝。相手は完全に次男を見下していた。前回と同じように背負い中心で次男が攻めると思ったのだろう。しかし次男は足技の練習を積んできた。階段ダッシュも足腰の強化だった。相手が不用意に出した足を次男は大内刈りで倒した。技あり、と審判の声が響いた。そのまま次男は抑え込んだ。試合に勝ったとき次男は無表情だった。勝つという事は負ける相手がいる。 相手への礼儀も忘れなかった。勝っても負けても尊い経験を残してくれる。次男に柔道競技があって本当に良かった。

  今次男は受験で厳しい戦いの中にいる。相も変わらず逆境に身を置いている。将来の夢をつかむために自身を追い込んでいる。この子が後悔しないのならば、もう少し栄光の架け橋を渡るところに付き合いたい。夢を目標に、そして現実にしてきた次男は今も「あと何回勝てば優勝ですか」と尋ねている。一心不乱に努力しながら。

 

 

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