第十四回:いざ熊本
桂古流が平成20年の現在もあって、きちんと(まあ、とにもかくにも)やっているというのは本当にすごいことだと我ながら感心してしまいます。それって、不景気だ物価高だという時代にうちの会社は毎月よく給料くれるよなあというのに似ている、そう思いません?
埼玉県に三代池華叟先生が佐渡島からやってきたのが明治時代。「桂通信」というしゃれたタイトルの作品集を明治41年に刊行しています。そのころには浦和の地に腰を落ち着けて教室をひらいていたにちがいありません。
明治41年ていったらみなさん、西園寺内閣や桂内閣のころですよ。日露戦争がおわったころです。そんなできごとは日本史の教科書の世界でしょ。そののち関東大震災や世界恐慌、二つの世界大戦をのりこえ、バブル崩壊もなんとかやりすごし現在にたどりつくわけです。
こういうのって自分とは関係ない、どうしようもない巨大な力(たとえば運とか)が大きな比重をしめている気がします。
そういう運の強い桂古流やお仕えした桂宮家のことが知りたくなりました。なので最近は西和夫の桂宮家の資料を読んでいます。これが本当に面白い。もう知らないことだらけで、驚きの連続です。なにも知らず、またすぐ忘れる私は、いつも新しいことに囲まれていて幸せです。何度読んでも毎回新しい発見があります。
「近世の数寄空間」(中央公論美術出版)によれば宮様がもっていた別荘の一つが熊本にあるといいます。そうか、宮家はすごい裕福だから桂離宮以外にも別荘があったのか!と気づくのです。
もともと長岡にあった別荘は天満宮の一角に建っていました。その建物で智仁親王は古今和歌集の伝授をうけられました。その先生役だった人物が細川幽斎です。細川幽斎は戦国武将である一方、歌人としても第一級の人物でした。細川ガラシャの義理の父にあたります。「国盗り物語」で明智光秀の親友として描かれていたのは司馬遼太郎ファンならご存知でしょう。
数百年ののち維新をむかえ、宮家の土地が公のものとなり建物の運命は、というとき細川家の縁もあり熊本藩に下賜されたそうです。その建物は熊本の水前寺成趣園(水前寺公園)にある古今伝授の間として移設されました。
そうなるとやはり宮家華務職だった流祖のきもちを考え「この建物に花をいけねば」と思ってしまうのです。写真撮影も禁止の京都桂離宮にお花をいけることはできそうもないけれど、ここはどうでしょう。何とかならないかな。
日本いけばな芸術協会会長であられた故細川護貞公がご存命なら、もしかしたらって感じだけど残念ながら遅すぎました。
熊本の観光協会とかに聞くと以外にOKが出たりして。そしたら「いざ熊本!」って行きたいけれど、もう少し上手になってからにしたいので「いつかは熊本!」くらいにしておきましょう。
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