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第百四十七回 顔のあるもの

 地元で生きているので町の中を歩くことが多い。花を活けに行く時、行政に書類を提出する時、会議に向かう時、外食する時、地域の奉仕活動の時など、気付くと結構よく歩いてる。
 平日の夕方、商店街の道を見た。人が1人も歩いていなかった。あまりの衝撃に立ち止まってしまった。活気というものがなかった。当たり前のように耳にしていた店頭での物売りの声、街を行き交う人の声、人ごみをかき分けていく自転車のベルの音など聞こえなくなった。シーンとしている通りは舞台で役者のいないセットのようだ。見てはいけない気がして足早に通り過ぎた。

 かつて聞きかじったエピソードでうろ覚えの話だ。有名な映画監督に最近作品を撮らないのは何故ですかというインタビュアーの問いかけに「だって顔がないじゃないか」と答えが返ってきたという。顔は個性とも言える。しかし顔の方がもっと日常的で人生の奥深くまで関わっている感じがする。子供の頃の商店街は顔の集合体だった。店主はじめ店員の顔、店舗の構えも顔だった。通りを彩るアーケードやフラッグも顔だし、売出しの時揃いのはっぴも顔だ。
 最近はどの都市に行っても同じような再開発が進んでいる。同じようなビルに同じようなテナントが入っている。それはそれで良いのかと思う。寂しいことに学生街も古本街も下街も問屋街も減ってきた。
 それでも今の若者にかすかな期待を寄せる。24歳の長男は幼馴染み3人としばしば地元に飲みに行く。先日は顔を上気させながら帰ってきた。そして「私、なんとスナックデビューしてしまいました」と宣言した。3人で一緒だから入りやすかったのもあったろう。お店の主人は三枝会長と同世代だったらしい。それなりに話も盛り上がり「また行くんだ」と言っている。チェーン店で飲んでいた若者がチャレンジに成功したようである。このように顔のある店の面白さを若者が知るようになれば日本はまた新たな力を得るだろう。

 私にとっていけばなの顔は古典花だ。祖父から次の代に移る時は現代いけばな全盛だった。私が展覧会に出し始めたころは現代いけばながメインの花席に飾られていた。こればっかりってどうなの?という思いもあり展覧会場のメイン花席に古典花を出品することがいけばなの顔を再び作る事だった。現代に生き返る古典花としてのいけばなの顔とはどういうものか。私は伝統技術を指に移す単調な作業を続ける一方、先代と違うテーマで作品にアプローチすることで過去の顔、現代の顔、そして未来の顔までつなげることかなと思う。
 立ち活けからは活け手の性格やその時の気分など「顔」が見える。過去の作品写真からも作者が活躍した時代の息遣いや笑い声が漂うようだ。立ち活けが愛される理由は、青春時代の音楽が人々を懐かしい時代に戻してくれるように、活けているうちに輝かしい時間を取り戻させてくれるからなのだろう。

 

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