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第百五十四回  青二才だった頃

 人はふとしたきっかけで大人になる。社会で生きていけるようになる。私は伊勢丹に勤めていなければ、どれほど酷い人生だったろうとゾッとすることがある。就職し、結婚することで私のコンプレックスの殻は破られた。それまでの硬い殻に覆われている時代は暗黒だった。外から見れば生意気な大学生も内面では認めてもらえない悲しさと歯がゆさに苦しんでいた。暗黒時代も終わらんとしていた大学4年、私は夏にライトパブリシティでアルバイトをしていた。1980年後半の広告業界華やかなりし頃にライトパブリシティ、通称「ライパブ」は中堅ながら若い才能に沸き返っていた。バブル期にもかかわらず入社するのは困難を極めた。私の実力では無理だった。私はまずアルバイトでライパブ足場を作ろう考えた。コネを利用して何とか潜り込んだ。半分就職できたも同然と有頂天だった。

 そのライパブに日本大学芸術学部在学中に引き抜かれ、そのままプロになったHさんがいた。彼の才能に惚れ込んだ大手クライアントが撮影の時、Hさんを指名してきた。30年前ライパブの社風は上下関係が厳しかった。若手は朝早くに来て掃除や雑務をこなした。その中にHさんも含まれていた。コーヒーを淹れるのも若手の当番制だった。私は一番下っ端でやることがたくさんあった。掃除はそこそこ真面目にやったがコーヒー当番はやらなかった。掃除や撮影機材の整理だけでも時間が足りなかったし、コーヒーを淹れるためにコネを使ってまでライパブに来たわけではなかったからだ。

 ある朝Hさんに「新藤、毎日おれ達がコーヒー淹れているのに、お前何も感じないか」と言われた。そもそもコーヒーを飲まない私は「いや、毎日掃除してますので。それに僕はコーヒー飲まないし」と応えた。やや呆れながらHさんは「ここでは新入りがコーヒーを淹れることになっている。お前がやればおれ達はそれだけ早く撮影に入ることができる」と諭され渋々コーヒーも担当になった。前述したように私はコーヒーを飲まないので粉の量に興味がない。興味のないことは本当にいい加減なので、コーヒーの粉を日によってスプーン1杯だったり3杯だったりを機械に入れた。私には不味いコーヒーと美味いコーヒーの香りの違いが分からない。色だけは薄い時と真っ黒な時があるなと思ったがコーヒー当番から早く抜けたかったので不評ならば不評で構わなかった。果たしてベテランカメラマンが不味いと言い出した。ああこれで評判悪ければコーヒー当番から外されると思った。数日してHさんが「あのな、この機械にコーヒーの粉2杯って書いてあるよな、どうしてその通りにできないんだ」とグチグチ言い出した。うるさいなと思った私は「すみません、イガラシさんみたいにコーヒー好きじゃないんで」とぞんざいに返事した。「イガラシって誰だよ!Hだよ!名前ぐらい覚えてくれ!」と叱られた。写真の事は何も教えてくれないでコーヒーコーヒーって他にいう事ないのか、と私は私で思っていたのでHさんにロクに謝りもせず懐かなかった。Hさんもロクでもないアルバイトと思ったことだろう。

 結局ライパブは入社試験に落ちた。もちろんHさんが悪いわけでなく私が全て悪いのだ。未熟だったし傲慢だった。それを差し引いて今考えるとHさんと私の間には?啄の機が存在しなかった。名監督のもとで成績が残せないスポーツ選手もいる。大物演出家の指導を受けても上達しない役者もいる。私はHさんとの出会いを生かしきれない青二才だった。きちんとHさんに接していれば写真の事も教えてくれたに違いない。Hさんはその後独立し素晴らしい賞を受け、美術系の大学で教鞭をとっている。コーヒーをきちんと淹れておけば良かったかな、いやライパブに落ちて伊勢丹に入社した結果、今の私がいるのだからこれで良かったのだと思い直す。


 

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