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第百六十一回: 枝先のない部分をいける

 立ち活けはどんなに努力しても終わりがない、始めたばかりの人にとって草花の5本活けは難しいだろうし幹部の方でも五行活けは大変だろう。場の位置や空間で基本通りに活けても収まりが付かない時もある。
 自分では寸法通りに活けても納得できない事がある。型通りが上手とも限らないのが面倒くさい所なのだ。
 私が気を付けているのは用と留である。曲げてから先端までの枝ぶりが今一つ掴み切れていない。形は作れていても自分の物になっていない。

 祖父や父に比べ私の花がぎこちないのは、枝で全てを表現してしまおうとしているからだ。寸法ギリギリまで枝が入れてある。当たり前なのだが面白みがない。抜きがないので盛り上がりもない。用や留を直線で作っては形になってもマリオネットのようにみえる。祖父や父は無理に活けていない。必ずしも基本通りの距離ではない。かと言って単に短く切ってあるのではない。
 何というか…無い部分が活けてあるのである。そのものは目に見えないのだが人の目に映る。無い部分は切ってしまえば終わりというのでなく、その先までつながっているように先端まで意識している。先端は物理的な終わりであって技術の終わりでない。作品の広がりというのは、無い部分をどれだけ使いこなせるかにあるような気がする。

 伝書の中に「虚実を使い分け」というフレーズが良く出てくる。実像というのが人間の目を通して脳に届く形状だとしたら虚像というのは目ではない感覚から想像力を刺激するものに違いない。
 祖父や父の作品が実物より一回り大きく見え、伸び伸びと見えるのは空間を十分にいかしきっているからだ。それにはまず無い部分に気づかなくてはいけない。
 寸法は大事である。まずは規矩を身体に憶え込ませなくてはいけない。しかし全てをその中に収めてしまうと、ひどく窮屈になってしまう。考えに広がりが無くなってしまう。

 見えない部分をどういけるか。その想像力を持っていけるかどうかで立ち活けに新しい命が吹き込まれる。

 

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