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第百七十回: 拵える

 物を作るならば素材を大事にしなくてはならない。音楽なら声や楽譜を、写真なら被写体や機材を、文筆業なら言葉に心を込めて使わなねばならない。このコラムを書いている時、いけばなの技を吟味するようにどの言葉にするか選ぶ。書くという行為も「記す」にするか「筆をすすめる」にするか「文章を綴る」にするかでまるで印象が変わる。全体の様子から考えて最も適当なのはどれか悩むこともある。良い言葉に出合えると嬉しくなり一気に文が展開できる。語彙の乏しさが知れてしまうエピソードだ。

 いけばなについての話題に偏るので「いけばなを〜」の後に続く動詞に苦慮する。多分一番多く使っているのは「活ける」だろう。いける、生けるとしている場合もある。本人はその前後から判断している。かと言ってすごい拘りを持って使い分けているのではない。30年前に評論家といけばな作家が「いける」と「いきる」の違いについて私の前で大激論をしていた。お互い主張を譲らない。私は志村けんと榎本明の芸者コントのように「どうでもいいわよねー」って感じで聞いていた。その程度の基準である。

  制作する、作るという動詞を当てることもある。が、有体で面白みがない。平べったいなと感じつつ分かりやすさを優先すれば使わざるを得ない。いけばなにピタリと当てはまる動詞は何なのだろう。コラムの原稿に向かうたびに、いつも頭を悩ませていた。「おしん」「渡る世間は鬼ばかり」の脚本家、橋田寿賀子は自身の脚本を役者が言い換えるのを嫌ったことで有名だ。役者のアドリブで替えさせないのには橋田の世界が壊れてしまうのを恐れたからだと思う。特に橋田と同世代の人々が使っていた日常の言葉の美しさは大事にしていた。台詞にしばしば「こしらえる」という言葉を聞き、ああそれだと思った。

  「作る」という言葉にはごく一般的な内容しか含まれない気がする。少し無機質な感じだ。間違っていないけれど暖かみとか優しさが感じられない。こしらえるには丸み、軟らかさがにじみ出る。ホッとするようなぬくもりがある。祖母は橋田寿賀子より15歳ほど年上だが「浩司、おしるここしらえようか」という声が今も耳に残る。こしらえるには祖母と過ごした幼い頃の食卓が目に浮かぶ。

  こしらえるとは、どういう状況を指すのか。素材がそのままの姿では、こしらえるにはならない。かと言って原型が分からなくなっては、こしらえるとは言いづらい。人の手が加わり素材の魅力を残しつつ別の表情が生まれたとき、初めてこしらえるになると思う。

  いけばなは、こしらえるではないだろうか。花材の色・形・香など本来持ち合わせていた魅力に桂古流の花型を合わせ、新たな姿を創出する。花器との組み合わせも考え、それぞれ高め合うようにコーディネイトする。こしらえるは、自分の代だけでなく何代にも渡って築き上げられた世界が似合う。余分な所は削り足りない部分は加え時代に合うよう工夫してきた祖父や父が遺した技を守りながら、いけばなをこしらえなくてはならない。

 

 

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