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第百七十六回: 「狂」を真剣に作ろうとする

 人間は不完全な生き物だ。だからこそ面白い。完全無欠なのに酒で失敗したり、誰にでも優しいのに賭博にハマって事業を傾けたり、家庭円満なのに恋愛に溺れたりする。考えれば不思議な生き物だ。生き物ゆえの狂いがこの世を複雑にしているともいえる。昔は鷹揚だったが笑って許せる時代は過ぎてしまったらしい。いけばなの世界は適当で多少メチャクチャであって欲しいと願う。
 堅苦しい世の中を生きていく人々の欲求不満を解消するのもいけばなを始め藝の大事な役目だ。二千年以上まえにプラトン、アリストテレスが提唱したカタルシスからわかるように芸術は精神の浄化という尊い働きがある、と芸術史学の教授が言っていたのを半分寝ながら聞いていた。期末のレポートに何を書いていいか分からず居眠りの記憶を膨らませて提出したらAだった。留年したがる学生を追い出したい学部ならではのエピソードだ。30年以上前の話なので現在の優秀な後輩とは何ら関係ない。

 さてカタルシスである。映画や演劇を見ているうちに観客はヒーロー、ヒロインになる。スクリーンの中のような恋愛をし、アクション映画のように悪い奴をバッタバッタやっつける主人公になり切ればいい。欲求不満を解消し人々は満足して日常に帰ってゆく。
 見せる方は大変だ。人々が抱えた欲求を満たさなくてはならない。悪役は万人の「憎い相手」となり、主人公は爽やかな顔をしてそいつをたたっ切る。遠藤憲一が戦隊ヒーローで悪役を演じていた時、撮影のない日に街を歩いていると、テレビを見ていた子供から「死んでしまえ」と怒鳴られて参ったそうだ。辛いエピソードだが役者冥利に尽きる。
 この世にない場面を作り出すには土台が「狂」になっている。しかし観ている人を狂の世界に引きずり込むには演者が真剣に役に入り込まなくてはならない。誰かが照れたり白けたりすると台無しになってしまう。無い物を有るが如く制作する、その狂が藝である。狂は虚と考えても良い。実体がないので、周りをリアルに固めていく。藝の常套手段だ。戦前のアメリカのバーを再現するためにビンテージ物のウィスキーを集めてカウンターの棚を彩る。時代劇では舞台背景は勿論、衣装や小道具、話し方まで「時代考証」と共に形作っていく。それ程真剣にやらないと虚は消えてしまう。

 いけばなの中で「いけばな芸術」という語はどこから生まれたのだろう。早坂暁は「華日記」の中で草月流の勅使河原蒼風は、いけばなは芸術だと言ったことはないと記している。かつて冨田次郎として日本女性新聞の記者だった早坂のコメントは信ぴょう性に富む。蒼風は言わなかったが取り巻きがそう名付けた可能性はある。終戦後に軍国主義・家長制度・皇国史観や伴う教育、教養に反発する形で、いけばな芸術運動は自由を勝ち得た民衆の喜びのエネルギーを一手に引き受けたとも言える。理論的に多少おかしくても現代いけばなは、民意を勝ち取り後押しを受けた。
 いけばな造形大学に関わっていた教授陣はいつも議論していた。時に大御所も加え渦のように議論し虚のいけばな芸術を理論付け体系付けて言った。その勢いにより古典花は一時期、展覧会で脇役になった。シンボリックな存在を否定することこそ、いけばな芸術の使命の一つと考えたようだ。祖父の立ち活けに向かって声高に言った現代いけばなの家元を忘れることができない。それも古典花の大家に挑みかかってくる挑戦者の心持だったのだろう。私達に対しても議論を仕掛けてきた。私はその姿からいけばな芸術という狂を実現しようとする生真面目さ、後進にその情熱を引き継ごうとする大切さを学んだ。いけばなを愛すれば「こんなにも楽しいよ」と伝えようとする姿に狂があるとすれば、私も狂を真剣に作ろうとしている一人だ。

 

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