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第百八十五回: 自動車履歴

 子供の頃、私世代の男の子は自動車好きか電車好きに分かれた。浦和駅のそばで育った割に駅員さんは身近な存在だったが、電車は興味の対象にならなかった。幸い子供の頃から自動車が家にあったことも影響しているだろう。3Cのカラーテレビもクーラーもありがたかったけれど自動車は夢のような存在だった。記憶に残る一番初めの自動車はブルーバード510型である。箱型の車で、フロントマスクもハンサムだった。南浦和に父が桑原の伯父から買い取った土地があり、新藤で家を建てた。子供の頃はそこに住んでいた。家元教場で住み込みのお手伝いさんが作ってくれた夕飯を食べ終わると、ブルーバードで南浦和の家に帰った。幼い頃に遠出した時の写真にはこの車が写っている。

 幼稚園に通っている頃に車を買い替えることになった。祖母はとても驚いたらしい。車はとても高価な物なので、一度買えば一生モノだと思っていたようだ。数年で100万円するものをどんどん買い替えるなど祖母にとっては正気の沙汰ではなかったのだろう。ブルーバードの後継車ブルーバードUにボディカラーは真っ白だった。フォルムは流線型でとても現代的に思われた。マツダコスモスポーツとフェアレディZの人気は別格だったが、ブルーバードUも素敵な車だった。夜寝つきの悪い私は南浦和に帰るのを嫌がる困った子供だった。すると父は川口の鉄塔や深夜まで開いている喫茶店まで、私を乗せてドライブしてくれた。後部座席に寝転がりながら上を見上げると、オレンジの街灯が同じリズムで流れ去っていった。
  小学生の頃、三菱自動車の代理店が生徒様を紹介してくれた縁で突如三菱自動車になった。ランサーという灰色のライトバンだった。花材や花器を積むのに便利な構造で、普通車なのに沢山積めた。祖父の作品集『華盛の生花』のための花材調達や出版社への撮影には、ランサーで行っていたのかもしれない。しかしお洒落な父は乗用車が良かったらしくトヨタマークUを買った。
  ここから我が家には2台の車があることになった。仕事用とプライベート用に分けて使った。桂古流家元本部が新築し会館になった頃、ランサーがフルモデルチェンジをしワインレッドの車が届いた。大学生になり私が運転を始めた。ランサーのあっちを擦りこっちをぶつけながら練習した。マークUの後はクレスタになった。父はよほどクレスタが気に入ったらしく、この後3代くらいモデルチェンジしたクレスタを買い替えたと思う。私が荷物運び専用になったのでライトエースが欲しいと言った。写真の機材も詰めるし、スキー板も車内に寝かして収納できる。祖父は「こんな荷物運びの車に乗るのか」と嫌がった。ただライトエースがあれば業者に頼らずとも活け込み、あげ花もでき、生徒様が下いけした花材や花器も運んであげられた。ライトエースの後、さらに積載量の多いハイエースにした。商用車と全長は同じなので、4メートルくらいの竹が楽に積めるうえ、運転席の目線の位置が高いので立っているのとほぼ変わらず、ハンドルを握っていて疲れなかった。今考えると可哀そうなことだが、京子とのデートはほとんどハイエースだった。
  京子と結婚する時、自身用にルノー・ルーテシアを持ってきた。うちに来た初めての外車はフランス車だった。私は左ハンドルに慣れるのに苦労した。ウィンカーとワイパーのレバーが左右ひっくり返しだった。父の知人がBMWはどうか、と勧め父もその気になりクレスタからBMWになった。ボディが硬かった。父が運転をやめてから私はまたトヨタに戻し、今度はボクシーになった。ワンボックスカーとSUVはこんなにも違うかと思った。ギアに触る機会も減り、マニュアルで運転していた者としてはクラッチもなくエンストもしないでスムーズに加速する車は不思議だった。さらに数年後にはスマートキーになりボタンを押せばエンジンがかかるようになった。

  AIの機能が自動車にも取り入れられ、ますます便利になって行く。しかし、その一方で自分が運転しているという実感が薄れていく気がする。レコードがCDになり、今や実体のない音源のみがデータで行きかう世の中だから、人間の技術が必要な分野はなくなってゆくのかも知れない。
 いけばなはいったいどうなっていくのだろう。50年後100年後を覗いてみたいような、怖いような気がする。


 

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