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第二百二回:  そこに身を置けた事の幸せ

 父が厳しかったお陰で私はあまり自身に期待しない。人というのは肩書をはぎ取られると如何に無力か、世間様に頭を下げないと生きていけないかを叩き込まれた。それゆえ、高い立場に置かれるのは今でも違和感を覚える。私は一つ一つ積木を高くするように努力して成果を上げた分、実績や評判は付随すると思う。大きな仕事の完成を目指してかなり手前から助走はじめる。

日本いけばな芸術特別企画in彩の国は、1年半位前に開催が決定した。展覧会を開催するのに1年半も前から準備など、ずいぶん前から動き出すと思われるかもしれないが、全国のいけばな流派が埼玉会館に結集する巨大イベントだ。展覧会以外にデモンストレーション、講演会、高校華道部展示会、各種の体験教室、Jリーガーとのコラボ企画、さいたまの花でのウェルカムボード、テレビ番組の生中継など様々な企画が立ち上がった。会場レイアウトや、来賓関係、ポスター宣伝、県・市・花普及・大学など関係団体との打合せ等々。良く動けたなあと今更ながら感心する。多くの方にご尽力とご厚意をいただき、埼玉会館展示室初の1万人超えイベントが成功した。会期中に遠山会長、池坊副会長、勅使河原副会長、理事長、副理事長との食事会に招待された。私は特別企画展を埼玉会館に誘致できただけで十分嬉しく、光栄だった。食事会の先生方に比べて明らかに若過ぎ立場も無かった。丁重に辞退しようとすると「埼玉県、さいたま市の話題を尋ねられた時に答えられるのは君だから」と諭され臆しつつ出席した。食事しながらの話題もハインリヒ・シュリーマンが来日した際の話題など、滅多にない高尚なものだった。気後れしたが、参加させて頂き良かったと思った。

無力な人間が生き抜くためには能力のある人間と組む必要がある。上記の展覧会が多くの皆様と手を携えて成功に導けたように、私生活に於いても無力な自身は何としても家族を作らないと人生が成り立たないと分かっていたので、結婚は生き抜くための絶対条件だった。京子という配偶者を得、時が経つと共に夫となり父となり大して手伝いもせずに子育ての良い所だけ体験させて貰った。白龍の結婚式で両家代表の挨拶をさせて頂いた時、大きな区切りを迎え、親としてまず一つ目の役目を全うしたのだと実感した。首をすくめて嵐に耐える事もあった。言い返したい時にズボンを握りしめて笑顔でいた事もあった。二人の結婚式を私の感情や言動でほんの少しでも瑕疵があるのは何としても避けたかった。

最近、夕飯の時に潤子(白龍の妻)から「お義父様ご飯の量はどのくらいですか」と尋ねられる。ボウっとしていると家内から「パパの事よ」と言われ、ハッとする。慣れない呼称に嬉しさと照れと温かさがこみ上げる。

祖母が使っていた踏み台がある。昭和50年に大谷場の家を建てた時、指物師に作らせた物だ。50年くらい経つが今も神棚の水や榊を整える際に使っている。白龍の結婚を機にAPEXタワーへ13年ぶりに戻って来た。それにあわせ室内装飾も白を基調とした。今、その踏み台を潤子がリモデルしてくれている。磨くときは姑となった京子も手伝った。潤子が塗装してくれた。捨てられても仕方ない踏み台を2人が談笑しながら手入れしてくれている。作業を見ながら私は遠い昔を思い出していた。30年以上前、入院中で身だしなみを整えられなかった祖父先代華盛の髭を私と弟で剃ってあげたことがある。祖父は照れくさそうに、でも喜んで「おい、良い図だろ」と周りの家族にその光景を自慢した。京子と潤子の姿を見て不意にその時の祖父の笑顔を思い出した。心から有難いと思った。祖母に「あーちゃん、良いお嫁さんが来てくれたよ」と呟いた。綺麗になってゆく踏み台を眺めながら、そこに身を置けた幸せを素直に感謝した。

 

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