第二十三回:金のすじ
いけばなを活けていて好調不調という時がある。スポーツではないけれど、いける前から上手くいく確信が持てる日がある。
今年の春の展覧会シーズンはまさにこの状態だった。 今回は歴代の家元が何もできない私を哀れにおもって素晴らしい作品をいけさせてくれたのだと素直におもう。「おっ、すごくうまくいった」という作品が四回つづくと、さすがに自分ではない大きな力が自分の体を使って活けてくれたんだと信じてしまう。
好調なときは材料をつかんだ瞬間とか、器と組み合わせた時とかに全体のイメージが目の前に浮かぶ。こういうときは感謝してそのイメージにさからわずトレースしていくだけでいい。 古典花をいける時、好調なときは金のすじがスーッと光りながらみえる。まるでスキーのシュプールのようなこの金のすじが見える時は絶対いい形になる。この春は四つの展覧会とも制作中に金のすじがみえた。信じられないくらい幸運である。なんなのだろう。努力と関係あるのだろうか?
父や祖父にも見えたのだろうか?なんとなく見えていたような気がする。祖父などは何本も見えていたに違いない。だから枝を折ってもあわてずに別の形に仕上げていた。
この金のすじは私の生け花以外でもたまに見える。書をかいていて上手くいくときとだめなときがある。上手くいくときは金ではないが、筆の先にやはりすじがみえる。柔道をしていても技のかかるすじがふと見えるときがある。
「道」というものに答えはない、しかしヒントらしきものに出会うことはある。この金のすじも多分ヒントの一つだ。今の私の体力と技術ではこの金のすじが限界点なのだろう。でも究極ではないとおもう。その証拠に半年前の自分の古典花を写真で見るとすでに違う金のすじが見える。
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