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第二十五回: たねとから

 8月の昼間はひまだ。あつくてお花がもたないから、いそがしいのは夜になる。ましてお盆になつやすみをとるので、日中にボーっとする時間がうまれる。陽炎がうかぶ路面をみながらすわっていると、溶けてしまったのは目の前のアイスクリームでなく私ではないかと錯覚する。このコラムをウェブ担当のカタギリさんがアップするのは9月になるだろう。8月現在の私は、からとたねに分かれはじめた実(み)を見ながらキーボードをたたいている。

 植物の主役は7下旬から10月にかけてゆっくりかわる。緑陰濃い葉は、徐々に秋色をましてゆく。花物にまじって実物(みもの)が、かおを見せはじめる。クリ・トウキビ・豆ガキなど誰でも知っているものから、トウゴマや鬼ナスなどもっぱらいけばなで見かけるものまで多彩な表情がそろう。

 また夏に美しい花をさかせたカキツバタやヒオウギは、実物(みもの)としていけばな花材に再登場する。若い時人気のあった芸能人が、ママドルとしてふたたび脚光をあびているのに似て ほほえましい。ヒオウギはかつて夏の代表的花材だった。その種子をウバタマとよぶ。いけばな関係者以外でも古文を専攻した人ならご記憶かもしれない。キーボードの横においてあるのはこのヒオウギの実だ。

 ヒオウギの実(み)は生命の喜びと寂しさが感じられる。たゆまざる営みと親子の愛情がみえる。人間の子育てに相通ずるものを感じる。 実(み)は、たねが育つまで必死にかばっている。実の中のたねはまだ一体化していて、お互いが一緒にいる幸せをかみしめているようだ。赤ちゃんがおなかにできてから、学校にあがるまでの母子とはこういうものか。外側がどんなに傷ついても、中の実には影響がでないようなっている。母親がたえながら子を育てている姿にかさなる。

 そして時期がくると実(み)はたねとからに分かれはじめる。たねが徐々に存在を主張しはじめるようになる。思春期の子がいる家庭のようだ。亀裂は反抗期の少年のこころだ。一方で、みずみずしかった実の外側はあせた色となり干からびて薄くなる。「から」になりはじめる。内側のたねは、あたらしい命としてとびだす準備をする。

 亀裂が入って大きさは立派になっても、色や硬さが一人前になるまで、たねはしばらくからに入っている。からも精一杯がんばっている。勤めはじめて親に小言をいわれている若い社会人のようだ。

そしてある日、たねはとびだしてゆく。たねはたねとして独立し、一生をスタートさせてゆく。一つ、一つとこぼれおちるように巣立ってゆく。外側は完全にからとなり、たねは役目を終えた親元をはなれてゆく。この生命最大のドラマは突然やってくる。転勤がきまって自炊をはじめたサラリーマンの母親。こちらの心配もよそにだんだん連絡が遠のく。あるいは珍しく娘と一緒の所に「お嬢さんをください」と若者にいわれた父親。実は娘もこの男の共犯者だとさとった時の孤独。自分もそうやって独立したくせに、親としては考えたくない場面だ。

 そしてからだけになる。でもからは空じゃない。一生を通して慈しんだたねがある。だからだろうか。からになってもまだ、たねを守ろうとがんばったままの形でいる。愛おしく包みこむようにたねをはぐくんだあかしだ。 たねが飛び出したあと、からの亀裂はやわらかいカーブをえがく。結婚披露宴で親が見せるさみしい笑顔に似ている。



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