第三十二回: アイディアが思いつかない時
文筆業のかたや作曲家、デザイナーなど何もないところから何かを作り出す人は、コンスタントに物ができるわけでない。波があって一度に何作もできるときと、まったく思い浮かばないときがあるという。生け花はまだ材料があるだけ助かるが、それでもまったく何も思い浮かばないときがある。「どうした、このあたまー!」と左右に振ってみるが動かないパソコンのように何も進まなくなってしまう。いけばなのアイディアがでなくとも、生活していればお腹はすくし眠くもなる。一応お弟子さんのお稽古もみているので外から見れば普段通りにしかうつらないかもしれない。けれど内心しんどいのだ。
生け花のアイディアが思いつかないとき、頭脳すべてがストライキをおこしているかというとそうでもない。作品構想がまったくお留守でも伝票処理は好調だったり、スケジュール計画では冴えていたりする。ほかの部分が働いているだけ尚更はらだたしい。
アイディアが出ないとき、色々な方法をとるが最近は天岩戸(あまのいわど)方式をとっている。
アイディアがでてきてすぐメモしようとすると断片だけで逃げられてしまうことがある。もう少し形になってくれないかなと思うときはアイディアを出そうとしないで全然関係ないことを一生懸命になってやる。「もう、お花なんかいけなんもんね」と真剣に思う。他のことに熱中してみる…と、ちょっとだけアイディアが姿をみせる。みせるが、まだ他のことに集中している。するともう少しアイディアの姿がみえる。もう少し、もう少しとわざと他のことを「面白いなあ」などと言いながらアイディアを構わないでおくと寂しくなるのか不安になるのかアイディアの全貌がみえてきた。そこをそうっとメモに写しとってしまう。描いてしまえばこっちのもののはずなのだが、使えるものはだいたい3割である。7割は意味不明なメモになる。考えてみるとできないものも多い。絵のわきに書いてある文字も「いけばなも寿司のように回転させる」「スモークイケバナ たちいけの炭化」「古い家屋はそのままいけばなになるか」…あまりに変で自分のことが空おそろしくなる。
こんな頭でっかちに考えず自然にできる人もいる。腹立つエピソードだ。近所の肉屋に小学生のころから遣いに行かされた。高級な国産牛からフライやメンチまで扱う普通の肉屋だ。成人しても行かされていたので10年以上通った。そのあいだ一度もおまけしてもらったことも、ほめられたこともなかった。さえない子供だったのだろう。どこへ行ってもそうだったからお遣いにいっておまけしてもらうのはサザエさんだけだと思っていた。ある日息子がその肉屋に買い物にいくと、ジャガイモを半分に切って揚げたものをお土産にもらって帰ってきた。本当にあの肉屋かと半信半疑でたずねると、そうだと言う。ショックなことに何度ももらっているらしい。かさねて言うが私は10年通っておまけもほめられたこともない。私は何も考えず自然と人を気持ちよくさせる人間が身近にいることに愕然とした。小学生の息子にまけた。主客逆転だが、商売をしているほうも可愛きゃ何かほどこしてくれるのだ。私はよほど可愛げのない子供だったのだと改めて実感した。この話は前にも書いたがまたどこかで書くと思う。
そこまでしてもアイディアをひねり出すのが自分の仕事だと思う。たとえお粗末な二流のアイディアしかでなくても「旬」なアイディアにしかない瑞々しさを信じたい。今の自分をさらけだしてナンボの世界に私たちはいる。
だから今日もまたやりたくないゴミの片づけに熱中しながらアイディアをつかまえようとしている。
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