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第四十回: 裏を読み解く 本来「美」は不親切なもの

 先日、うちの生徒さんが「いけばな展の横に石が飾ってありました」という。何のことやら分からず、少しずつ尋ねていくと、どうやら彼女は町の芸術祭を見に行ったことがわかった。絵画や書などと一緒にいけばなや盆栽も展示されていたという。展示スペースの一番奥に、その道一筋みたいな古老があつまり石について語り合っていた。「それって盆石じゃないの」と私がいい、サイトから画像をみせると「これですっ!」と小さく叫んだ。彼女は非常に興味があったのだが、聴いてもフンとあしらわれるか、逆に2時間くらい説明されるか、どちらにも恐怖を感じ古老に声をかけられなかったという。私にも似た経験がある。佐渡おけさと越後の網元・庄屋の関わり合いについて調べたいと感じたことがあったが、どこにも取っ掛かりがなくそのままになっている。


 現在は口の達者でないと芸能も生き残れない。「だまって、私の作品を見てほしい」では通らない時代だ。過剰なほどの説明、うるさいほどの親切、迷惑なくらいのサービスの中で私たちは生きている。だから自分たちで何かを探しだそうという気があまりおこらない。いけばなに携わる者にとって困った問題だと思う。


 私たちと「美」との関わり合いには、まず出会いがある。出会って感動する。そうしたら次に自分から美をさがし掘り下げる努力も必要だろう。芸能には表面的な美しさだけを楽しむ方法がある一方、裏に隠された意味を解きほぐす喜びがある。


 まずは作品をそのままを感じるのがよいと思う。素直に素敵だと思わなければ美と向かい合ったことにならない。そして感じることができたら、やはりいろいろと調べることも楽しみのひとつなのだ。作者が何にインスパイアされて作られた「美」なのか、ぜひ知りたいと思う。 池田満寿夫という美術家がいる。版画・小説・陶芸などで活躍した作家だ。先日彼の作品の解説をしている番組を見た。有名な版画「バラはバラ」が映し出された。レポーターが「きれいですね。とっても好きです」と語った。


 その時、私の裏読み癖がはじまった。池田満寿夫が「バラはバラ」というニューヨークに行った際のエッセイがある。たしか織江という女性がでてきた。池田はリエとよんでいる。読み解くカギは、バラはバラというタイトル・池田が官能の芸術家と言われていたこと・バラの下に描かれた2体の裸婦像・エッセイに登場する女性はリエといわれていたこと。この4点だ。ふいに思い当たる詩人にぶつかる。これはガートルード・スタインのことなのではないか。彼女の詩「聖なるエミリー」にはリエという名前の文字が隠されている。この詩の中に「バラはバラでありバラでありバラだ(Rose is a rose is a rose is a rose)」という有名なフレーズがある。これは池田のタイトルとかぶっている。そして二人の裸婦と池田の官能作家としてのキャリアを考えると、これはスタインと愛人のアリスBトクラスではないかと考えられる。


 こんなこと美術に詳しい人なら常識なのかもしれない。または全くの的外れかもしれない。けれど裏読みの楽しさは自分の知識がとんでもないものと接触する楽しさだ。


 本来、美は不親切なものである。池田満寿夫のような時代の寵児だった者ですら亡くなって13年もたてば色々な情報が風化してゆく。おせっかいな時代は、いなくなってしまった者には極端に冷たい時代だ。ただ作品のみが残されて、伝えたかった内容が置き去りにされていく。私たちはそれらの作品に出会うたびに少しずつ探してゆかねばならないと思う。


 いけばななど、不親切の親玉みたいなものだ。なかなか説明してくれないし、作者が口で説明するのは野暮だとおもっている。あまり説明過多だと鼻白んでしまうのも分かる。けれど観客に対して解説のようなものが配られることもない。拈華微笑のように気づいてくれるのを待っているだけである。 そういうものに対してはやはり自分で調べるしかない。行き詰ったらこちらから尋ねてゆくしかない。いけばなに近い茶道には問答がある。禅の影響がそこにもみられる。この問答はとても大事な行為だと思う。客は感動とともに「なぜ、どうして」という疑問を抱くことが多い。作者はその質問を待ちかまえていることもある。そこでお互いの考えをぶつけ合う楽しみが生まれる。 すれ違ってもいいから客の問いかけは作者には嬉しいものだ。


 永六輔がテレビ番組の出演を依頼された。年若なディレクターが「うちの番組に是非出演頂きたいのですが」という言葉に、永は「どういう意図で私が出演するのですか」と尋ねた。彼特有の問答をしかけたのかもしれない。しかしディレクターはあっさり折れ「じゃあ、結構です」となってしまった。ディレクターにすれば忙しいのに交渉に時間をかけられないとか、権威に対する永の反発心にむかっ腹を立てたとかあるかもしれない。永にすれば作品である番組に関わるなら問答は当然だという気持ちもあるだろう。番組を「美」にするためには当然の過程なのだと。


 芸能に関わるからには作品をつくるだけでなく、探し、尋ね、答えるという行為が付随することをもう一度かみしめたい。


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