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第五十四回: 客の目か 主の目か

 もの作りの人ならだれでも悩む状況がある。 自分と同じ分野ですばらしい作品にであった時、客の目としてみるか、 作り主の目でみるか… というときである。

 客としてみる場合、 あこがれと尊敬を持ってみればいい。 完成体を完成体としてすなおに 「すばらしい」 とおもうだけで客の目としては十分である。

 一方、作り主の目は完成体としては、みない。目の中でどんどん分解してゆく。出来上がりから素材までを逆算している。 「わたしならこうする」とか 「ここは歴史的にこうしたほうがいい」 という部分がでることもある。


 私の場合、他人の作品に対しては作り手の目でみることがあるので、一般の人がみない所をしゃがんでみたりしている。そういう時は分析しているので心動かされたりしない。自分がこの世界で生きていくための資料としてみている。何がどういう仕組みになっているのか確かめることに集中する。


 しかしそれを許してくれない作品がある。それが六世家元華盛の作品である。対象物として冷静にみようとしても気づくとうっとり眺めている。「すげー」とかつぶやきながら写真をみている。そんな自分に気づくとなさけなくなる。実は「華盛の生花」の作品をノートに写したことがある。写して骨組みにしていけば簡単に再生できると思ったのだ。


 しかしむりだった。写真を見ているたび心が吸いとられてしまう。冷静でいようとすればするほど、 祖父の作品に対する畏敬の念はますます強くなる。 気づくと普通の読者になっている。いや、祖父の作品を簡単にまねしようとした分、邪推にまみれた読者になっている。


 そこまでしても、 まねとは程遠い作品ができあがり、 ため息が出る。 うまくいかないなあ、と思っていると頭のうしろの方から、祖父の、少しくぐもったやさしい声で「そんな図にたよるより一瓶(いっぱい)でも多くおけいこしな」と語りかけられている気がした。結局三つの作品を図にしただけでやめた。今思い出してみてみると、祖父の作品をトレースしているだけだった。


 祖父の作品には歴代の家元の手が受け継がれている。作品の中で見え隠れする。昭和はもちろん大正も明治も江戸時代末期すら息づいている。祖父の作品を通じてその世界をかいまみたいと思っているうちに、本来の目的を忘れている自分に気づく。祖父の前では作り主の目になれず客の目のままだった。


 祖父の言葉をおもいだし、お稽古をはじめる。こんなことで祖父に追いつけるのだろうかと不安になる。しかし材料を前にすると気持ちが落ち着き、不安も何も忘れてしまう。無我夢中でいけていると、以前できなかった所ができるようになっている。驚いて自らの作品をみていると、祖父の声で 「フフ、できたじゃないか。 ごほうびだよ」 と聞こえた気がした。 客の目 主の目は未完成だけれど、私には祖父の目が宿っている。そう感じた時、夜ふけの教室で自分の作品を前に胸を熱くした。



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