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第五十八回: 立ち位置

 男として立ち位置を持っている。これほど格好いいことはない。そこに立てばしっくりとすべてがおさまる。敵はおそれ味方は信頼し客はだまる。みんなの視線を一身にあびる男。


 今、自分の立ち位置をもっている男はだれだろう。田中将大投手だろうか。彼がマウンドに立つと空気がかわる。自然と彼を中心に進行する。それは強いとか弱いではない、格が違うという一言につきる。田中投手の活躍は、何にもしないで居座っている政治家やその他もろもろをふっ飛ばす豪快さだ。二十三歳とは思えない立ち姿は本当にサマになっている。

 我が広島カープの前田健太投手も、立ち位置が決まった。セリーグを代表するエースとなり嬉しい限りである。田中投手と幼なじみのジャイアンツの坂本も自らを「マー君世代」と呼ぶところから、田中投手は同世代からの人望も厚いのだろう。


 立ち位置は永遠のものではない。いずれは消えゆくもの交代してゆくものだ。だからこそ美しく光りかがやく。一瞬のきらめきに全てをかける。

 それはカリスマといってもいいかもしれない。ステージを別世界にみちびくミュージシャン、役者、ダンサーなど、スポーツ以外にも華やいだ立ち位置を手に入れた人たちがいた。今は不況だから勤めている人々は立ち位置が決まらないことが多い。けれど、バブルの頃はサラリーマンも立ち位置をもっていた。自分が日本を、世界を、うごかしているとみんな思っていた。

 林真理子という小説家がいる。二十五年前、彼女が小説を書き、彼女の脚本がドラマ化されると、そのとおりに都会の女の子は行動した。そういう立ち位置を持つ女性だ。女性だって立ち位置を持っている方が格好いい。そして今、林真理子は「バブル期の語り部」たろうとしている。自らの生き方を最後まで貫き通すところにゆるぎない立ち位置を感じる。その一方、手を変え品を変え立場を変えておしゃれと女の子に一生をささげる田中康夫も大したものだけれど。


 じゃあ私の立ち位置は、と考えた。私は桂古流の九代目家元だ。それと同時に桂宮淑子内親王の遺臣の末裔でもある。

淑子内親王は明治十四年にお亡くなりになっている。

 私の手元の資料では池先生はそのころ佐渡島より上京している。なぜ明治十四年という年号に池先生は出てこられたのか。「星雲の志を抱き…」とあるが、それだけだろうか。旧君の危急を知り、はせ参じるつもりだったのではないか。そう考えると池先生は旧桂離宮華務職という立ち位置をゆるがすことなく実践したのだと想像がつく。

 桂宮様も明治帝とご一緒に東京にいる、そう池先生が考えられても不思議でない。明治の初期は東京遷都するかしないかで、大もめにもめていた。明治帝は東京に移るにしても簡単に移れず京都に一度もどり再び東幸する、という気の遣いようだった。政府は「東京へ天皇陛下の行幸があるだろうが、京都は千有余年の帝城で大切に思っておられるから心配はいらない」とする諭告を京都府から出させたらしい。東京という読み方も明治十四年のころは「とうけい」とか「あずまのきょう」と呼ばれていた。


 池先生は内親王が東京にいるのか京都なのか迷いながらやってきたはずだ。不安だったろう。でも君主のために一日、一刻でもはやく傍でお仕えしたいというのが臣の心だ。池先生は必死に展覧会に秀作をだし、埼玉だけでなく東京でも名を馳せていった。自らの野心ではなく宮様へ自分の居場所を知って頂くために、頑張らざるを得なかったのかもしれない。


 そこまでの熱意、そこまでの忠誠心こそ六代下った私の誇りだ。「君主のために全てを投げ出す」という花務職の流祖がいた。流祖の想いを受け継いだ池先生がいた。

 様々な出来事をのりこえた歴代家元の想いを平成の世に汲み上げてこそ、私の立ち位置が決まる。





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