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第六十回: さがすこととつくること

  いけばなはそれが一つの作品として完成するまでが一番楽しいし、一番苦しい。

  その楽しさ、苦しさというのは結局同じ二つの事柄から派生した兄弟のようなものだろうと思う。その元となる二つの事柄が、探すことと創ることである。

私たちはいけばなを制作という観点から見た場合、作品を創り上げることに目がゆきがちである。
  しかし、いけばなに於いてほかの芸能以上に探すことはより大きな意味を持つ。
探すというのはこの場合、より良い出合いをもとめ自分の脚で出向き自分の目で見つけ出すことだ。
  良い花材ならばそれ一つで十分に作品たりうることもあるし、優れた器ならば花材が平凡でも良い作品になることもある。なにより「いい物を探し出した」という作者の高揚感が作品にのりうつる。花材も器も探し出会ってこそそれへの思い入れもわくし、見る側もその出会いまでの経過と云うのは不思議とわかるものなのだ。苦労して手に入れた珍しく美しい花や器は目をひき、いけばなの可能性を拡げる。そういう意味で花屋、道具屋はなくてはならない存在だ。

   最近の世の中では創ることに比重が置かれているように思う。 探す、見つける、出会うという行為より無からの創造ということの方がより一枚上手を考えられているのはないだろうか。最近の芸能界がつまらないのは最初から創られた芸能人ばかりが出てくることかもしれない。創り上げられた温室育ちの芸能人は偶然見つけ出された芸能人のパワーに圧倒されてしまっている気がする。

  創るという行為は探すより容易いかもしれない。創るというのは農耕民族的な行為で、探すというのは狩猟民族的な行為なのだ。彫刻も絵も音楽も全てゼロからの出発である。自分で種を撒き育て上げる。それらは農業的作業だ。が私達いけばなを扱う者はまず良い花材、良い器という理想の獣を追う狩人である。その分だけ多くリスクを抱えている。探すという行為は偶然性が高い。どんなに努力しても徒労に終わってしまうことさえある。全てを創るような確実さはない。


  では創るばかりでない、探す要素も求められるいけばなが、人々を惹きつけるのはどのような点だろう。

それは創り上げられた作品の花や器の中に、作者の妥協なき「探す」行為を見出すからでないか。創るために観客の予想より一歩上をいくレベルの花や器。それを探し当てるまでの作者の息遣いや足跡に、観客はご馳走として花に酔うのだと思う。


私はいけばな、つまり花をいけるというのは、何かしらを常に探しているのだと思う。みんな探している物は違うし、そう簡単に見つけられないだろう。それでも私は常に自分の追い求める「何か」を探し続けたい。




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