桂古流いけばな/活け花/フラワーアレンジメント/フレグランスフラワー

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第六十一回: 老婆心をあざ笑え

  いけばなを続けられる人はみんな美しい。これはいつわざる私の本音である。


  いけばなは人をいつまでも若々しく、内面から輝かせる力があるに違いない。
どうしてだろう。いけばなを習っている人は、習っていない人より10歳若く見えるのは何故だろう。
  人前で花をいける。その作品を、そして活けている姿を見られているという緊張感が人を美しくするのだろうか。人前に出る。そのために化粧もするだろうし、衣装も気遣うだろう。けれどいけばなを続ける人は、そんな薄っぺらな外側の美しさでない、内側からあふれる美がある。


  それはいけばなが挑戦の連続だからだとおもう。良い形に仕上げたい、けれど無理すれば折れるかもしれないという矛盾を抱えながら前に進む。いけばなは一瞬たりとも気が抜けないのだ。

  これはどんなに経験を積んでも緊張する。古典花、自然花、現代花のどのジャンルでも折る可能性がある。けれど折ることを恐れてはならない。気に入った枝がダメになっても落ち込まず、「ふふん、そう来たか。じゃあこれならどうだ」くらいに軽い気持ちで次の方法を考える。

一番いけないのは失敗していないのにためらって挑戦しないという極端な気の遣いようは良くない。特に枝を切り過ぎて先生に叱られては困るので切りませんでした。というのは若さや美しさの敵のような考えだ。こういうのを老婆心という。老婆心はいけばなに無用である。私は枝を切りすぎた人を叱ることはない。むしろ若々しい可能性を感じる。「思い切りのいい決断」と「楽観的な完成予想」は傑作を生む最大の秘訣だ。

  展覧会用に入荷した極上の花、最高の枝。それらを「折る寸前まで曲げろ」というのは酷なのかもしれない。触らないほうが良いのではとためらうかも知れない。たった一つの花材ならそのまま使った方が安心かとも思う。
  しかしそれでは観客は感動しない。作者が限界まで挑戦していないからだ。観客は作品の中の老婆心をするどく嗅ぎわける。ギリギリまで曲げた枝や花の緊張感は、作品を一段高いレベルに引き上げる。

 桂古流とは関係のない老婆心。だが以外と世の中の人はつかまっている。地震につづく原発そして巨大地震の予測、国家財政の破綻、老人国家は目前…最近のマスコミを賑わしている話題だ。あれだけの震災のあとだから不安なのは分からなくもない。けれど不安を煽る不確定情報は必要なのか。私には老婆心と感じてしまう。

 日本は関東大震災に遭い、学徒動員で多くの優秀な若者を失い、原子爆弾を長崎と広島に投下された。そして終戦を迎える。混乱期をのりこえやっと巡ってきた高度経済成長期をささえた。深い悲しみの中から立ち上がった先人たちをみよ。江戸時代なんて昔ではない。我々のすぐ前の代が経験しているのだ。不安はだれもが持っている。しかし日々のささやかな喜びを糧にみんな前を向いて生きてきた。
  その延長線上にいるから私も働く。祖父のように、父のように。いまさらこんな老婆心報道に私たちが築いてきた楽しい毎日を邪魔されてたまるかという思いはある。備えを人並みにしたら、あとは日常を思い切り楽しむのだ。ビクビクして前に進まないより、人生の中味を充実させながら精一杯使い切りたい。

過剰な心配などあざ笑ってまた新たな挑戦に向かう。作品そして自身の美と人生のために。






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