桂古流いけばな/活け花/フラワーアレンジメント/フレグランスフラワー

ホームサイトマップ
 

第七十六回 ぎこちない関係


 私の父は昭和11年生まれだった。あの世代の男性…とひと括りにするのも失礼だが、私から見れば特徴がある。立川談志、長嶋茂雄、和田誠、横尾忠則、亀井静香、江副浩正など同じ年には錚々たる名前がならぶ。
 多分その世代の人々と同じように父も生きた。マイカーにあこがれ、麻雀に熱中し、巨人大鵬卵焼きと共に生き、タバコを嗜み、裕次郎を手本におしゃれで気障だった。

 教室でもおしゃれで気障なイメージで通した。そのイメージのままでいたかったのであろう。母が私生活を暴露すると本気でおこり、かならず喧嘩になった。
 家庭の匂いなど教室で出すべきではない、と確乎たる主張が父にはあった。母が脱いだコートを教室に置くことも、私達子供が教室を走り回ることも「家庭の匂い」なので、厳禁だった。父は家庭の匂いをどう処理していいか、分からなかったのかもしれない。いや、父にとって家庭の匂いというものは、それほど大きな存在ではなかったのだろう。

 正直父は怖かった。普段は叱られないよう極力注意していた。それでもよく叱られた。
叱り方・その頻度ともに度が過ぎていたのだろう。父とはぎこちない親子関係が続いた。
家元・副家元という関係でいたほうが楽だった。あまりプライベートな会話はしなくなった。大人になってからもそのすき間は埋まらなかった。

 大阪で展覧会があり父と二人で出掛けたことがある。
父「ここ最近…何やっているんだ」
私「家元と一緒に大阪にきて展覧会の手伝いをしています」
父「そうか」
 文字にすると木で鼻をくくったような返答だ。
どう読んでも悪いのは私となる。
しかし間違えた答えをして叱られる恐怖がこのように答えさせていた。
私は、上記のような父子関係も昭和11年の男性の一典型だと思うのだ。



 しかしこれは父だけの問題ではない。受け入れてしまった私にも原因がある。「叱られて怖い。ゆえに頼もしくえらい」という感覚がどうしても私の中から抜けなかった。私が父との関係を固定してしまったのだ。ぎこちない関係はその後、父の亡くなるまで変わらなかった。最期の頃に交わした父との会話すらぎこちない。
その頃、父は肩で息するようになっていた。苦しそうだった。
私「苦しいの」
父「ああ、苦しい」
私「・・・・」
私は口にできなかった。「死ぬの」と聞こうとしてやめた。



 月日は経ち私が父として息子達に接するようになった。多分父と私より、私と息子達の関係は親密で良好だと思う。しかしそれが正しいのか分からない。ぎこちない関係ゆえに父より古典花を上手になりたいと思い、良い家庭を築こうと思った。

ふと気付くとメビウスの輪の最初に戻ってしまった私がいる。

 


 

バックナンバー>>
桂古流
最新情報
お稽古情報
作品集
活け花コラム
お問い合わせ
 
桂古流最新情報お稽古案内作品集活け花コラムお問い合わせ
桂古流家元本部・(財)新藤花道学院 〒330-9688 さいたま市浦和区高砂1-2-1 エイペックスタワー南館