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第七十九回 親の七ひかり祖父の四十九ひかり


 私は不届き者だ。

 父は事あるごとに「一生懸命勉強すれば、一生懸命努力する仲間ができて、一生懸命頑張っている会社にはいれる」という説教を私にした。私は外見上神妙な態度で聞きながら「それは私の一生じゃない。」と内心考えていた。

 同世代で切磋琢磨する一生を送る人を立派だと思う。尊敬もする。そうなって欲しいと願う父の態度は理解できる。私も私の子供にはそうなって欲しい。
反面、私には縁のない生き方だ。これは仕方のないことで、必死にしのぎを削っている私がどうにも描けないのだ。ぴったり来ないと言うか、私が私でないようだ。ひんしゅくを承知で言えば、努力して家元になれるものではない。生まれながらに決まっている立場があるということを、幼心に知っていた。

 だから白い虚塔を読んでいても「何でそんなに無理して、のしあがろうとするのか」という肝心の部分が欲として理解できないので面白くない。適当なところで生きていけばいいのに、と落ち着いてしまう。ちっともうらやましくない。

 どこか欠如した人間だったので同級生とも上手くいくはずがなかった。最初から平等じゃないのに、うわべだけ横一線にして競わされたりするのが厭でたまらなかった。どうして子供と同じ教室にいなくてはならないのか、私に向かって敬語をつかわない物の分別のない連中と生活しなくてはならないのか…そんな不満ばかり抱えていた。トラブルばかり起こしていた。

 通知表なども大嫌いだった。切磋琢磨どころか共同作業もできなかった。通知表はその証拠だ。生活態度の項目は人に見せられたものではなかった。協調性はEだった。小学校の担任から報告欄に「新藤君はすぐ人にちょっかいを出し、喧嘩に発展しています」と書かれたことがある。

 同級生は子供だから仕方ない。が、担任は大人なのに上っ面の平等がかえってクラスを混乱させていることに気付いていなかった。こいつ先生なのに馬鹿でそんなことも分からないのかと、私は本気で怒った。あまりに腹が立ったので硬筆用の6Bの鉛筆で担任のコメントの上に「うるせえ」と書いてやった。母親が消しゴムでこすっても消えず苦労していた。今考えても何故にあんな無鉄砲だったか、私自身でもわからない。

 高校3年の時は早稲田卒の担任に「新藤、一浪して俺の後輩にならないか」と言われた。私は「先生、俺はどこの学校を卒業しても家元になることは決まっているの。大学をとっとと卒業して祖父からお稽古を仕込まれる方が大事だし、みんながそれを望んでいるの」と言い返した。弁論に長けた担任だったがさすがに絶句していた。可愛げのない生徒であった。

 将来何になるかも確認せずに競わせるのはおかしいという身勝手な信念が就学前に私の中に確固たる柱になっていた。納得できなければ平気で逆らった。「この分野は必要ない」と思えば勉強でも容赦なく切り捨てた。他人が人生の大事なことを親友に相談しても、私は同じ年の子供などまったく信用しなかった。青臭い親友ごっこが苦手だった。

 

 こういうことが許されたのは父の7光り、祖父の7×7で49光りのお蔭だと思う。子供のころから父や祖父を見ていた。「いけばなの家元先生の息子」という立場が私の行動を自然と方向づけていた。私が生まれ育ったのはそういう放蕩が許される地域、時代だった。家業だけでなく祖父、父のおかげで私は甘やかされていた。「うるせえ」と書かれた担任が勉強不足なだけで、高砂1丁目はそういうわがままが許される町だった。最近まで地元には商店街がシ
ステムとして機能していた。いけばなの家元は町内や商店街で特異な地位に立っていた。
  しかしその地位にのっていい気になっているのは大変な間違いだと気付かされた。人々の畏敬を集めるゆえに、むしろ人一倍気を使いながら生きてゆかねばならないのだと知った。祖父は「家元はどこで誰が見ているか分からない立場だから絶対立ち小便はするな」と言った。先生に向かい、うるせえと書くなど言語道断である。

  比べられるのは同世代の人ではなく、父なり祖父なのだと大学のころ理解した。必要以上に腰の低い祖父、父をみて「実るほど頭をたれる稲穂かな」という生き方を学んだ。私が家元になってからは余計注意した。

 

 今、私は非常に腰が低いと思う。努力もそこそこしていると思う。祖父・父ほどでないにせよ、息子にもすこしは光のおすそわけをしたいから。


 


 

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