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第八十四回 スジ・ヌケ・マ

 私がかよっていた日大芸術学部は、文藝・演劇・放送・美術・音楽・映画そして写真の
7学科あった。私の卒業後デザイン学科が加わった。教養課程が終わり専門課程になると
数単位は他学科の授業が単位として取得できた。

 江古田のせまい校地に肩を寄せ合っている学科同士なので、他学科でも仲が良かった。学んでいることも、まったく違うようで将来的には必要だったりした。

 私は写真学科だった。当時映像においてスチールのほうがムービーより高度という定説があった。写真学科で映像技術は十分学べたので演出とか監督というものに興味をおぼえた。
映画の演出論が面白そうだと思った。当時、映画学科出身の監督といえば、故・森田芳光がダントツ人気だった。「家族ゲーム」では松田優作のイメージをガラッと変えた。

 映画演出論は人気が高くてとれなかった。映画比較論にした。
 講師は「青い山脈」や「一杯のかけそば」で知られる名監督、西河克己先生だった。有名な先生なのに好々爺然として親しみやすかった。日本映画、特に黒澤作品に絶対的な自信をもっていた。授業は「七人の侍」と「荒野の七人」、「用心棒」と「荒野の用心棒」など2本つづけて見る、翌週レポートを提出する方式だった。私はテストよりレポートの方が好きなので楽な授業だった。

  その授業で西河先生が「映画はスジ・ヌケ・マだ」とお話しされた。
  実は後年調べると、マキノ雅弘は父省三をふりかえり、似たようなことを言ったエピソードがある。「ホンさえよかったら、誰でもいい演出家になれる、と。 スジ、 ヌケ、 ドウサ、というのが父の映画憲法だった。スジとは筋すなわちストーリーの面白さ、ヌケとは画面がきれいにぬけていること、ドウサとは動作で、これが、この順序通りに、父にとっては映画の三原則にほかならなかった。」
 私がうろ覚えだった可能性が大だが、もしかしたらマキノの考えを、さらに西河先生が進化させたのかもしれない。

  西河先生に教わったスジ・ヌケ・マを、私はそのままいけばなに応用している。

 いけばなにおけるスジとは「いつ・どこで・だれに・なんのために」見せるのか、ということである。日常のいけばなと、展覧会に出品するいけばなでは違う。花材の分量もサイズも変わる。自分の与えられた条件をしっかり理解することが大事だ。
 展覧会の席が決まっていて、となりが大きい作品を得意とする先生ならば、借景としてこちらは低く制作した方が目立つ。強い風を利用する風車の理論である。
 季節をずらすのも大事なスジだ。周りが今の季節にこだわりそうならば、独りだけ次の季節をつかまえにいく。勿論逆も然りである。スジ立ては才能でなく政略である。情報を集め、周りから自分の作品が際立つようにストーリーを展開させる。

 ヌケは物である。どれほど良いストーリーを組み立てても、作品そのものの素材が悪くてはいけない。花材、器は良ければ良いほどいい。特に花材は多い中から選ぶのがいい。最高の素材で作り上げていく。これは高価なという意味でなく「ストーリーにぴったりか」を基準に考える。枯れかかった秋草をつかうなら青々したものを花屋で買うのでなく、茜色に変わり始めたものを河原でみつける。買うよりよほど難しい。

 マは間である。これは空間かも知れないし、時間のマかもしれない。マはおかしみを呼ぶ。
ユーモアとも呼べる。素材の強さ、表情を見せつける一方、観客が作品に寄り添いやすくなる。このマを軽んじていると作品の完成度が落ちる。マのない作品はただの真面目な「作例見本」になってしまう。面白味もハラハラもない。良い教本はマがなくてよい。しかしアーティストの作品は無駄を承知でマを開けなくてはならない。マのための余分な努力をしなくてはならない。見えない部分の努力をすることで、作品の「先」がみえる。

 スジ・ヌケ・マを心がけて制作することはなかなかに難しい。

 


 

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