第八十五回 現地にいくこと 本物に触れること
文章をフィクションとノンフィクションとに分ける。けれど厳密にはフィクションもノンフィクションも100%というのはない。フィクションは大部分空想だとしても実体験なしに作り上げることは難しい。またノンフィクションも全て事実ということはない。物事の見方にはどんなに公平を心掛けても最後は個人の立場により独自性が出る。
知識の基盤となる教科書でも国の立場によって内容が変わる。特に歴史観については国情により大幅に変わろう。敗戦後、日本の子供たちに教科書を黒塗りさせた行為はその最たるものだった。
ジャーナリストという職業は本当に難しい。事実を事実としてのみ伝えることに価値がある。些細な油断が無味無臭であるべき報道に過度な主張が加わり歪められてしまう。
ジャーナリズム・ノンフィクションの立場は「現地に行くこと、当事者に会い話を聞くこと」を第一とする。机上の資料だけで片付けない。それだけの差で読み物としての厚みが違ってくる。
現地で感じる空の青さ、風の強さ、寒暖の激しさ、人々のざわめき、路地のにぎわい、心の温かさ、窓からもれる灯、盛り場のにおい、ほとばしる感情。それらは行と行の間、文字と文字の間からにじみ出る。現地を、事件を、人々を立体的に見せてくれる。
どんなに情報が氾濫しても、現地報道の生々しさに勝てるものはない。
現地で出会い本物を目の前にした者だけが手にする空気感。ジャーナリストとは、書いた文章・写真で、現地の空気感に読者を引きずり込むことのできる人々だ。聞いて集めた情報は精査されなくてはならない。とびっきりの情報に最高の文脈を用意する。文字数の前では苦労して聞いてきたコメントも削らなくてはならない。けれど現地のにおいは残る。大事なことは「自分の主義主張を極力消し、一般読者の目線で事実を伝える」ということである。
かつていけばな界にジャーナリストと呼べる人がいた。緻密な取材、特ダネの数々。彼が記事をまとめた著作は、とても素晴らしかった。私はその本をいけばなに全く関係ない人物から勧められた。彼は時代の寵児となりいけばなから離れた。テレビ映画で活躍した。
数十年して彼が戻ってきた。かつての本の題名に「平成」の冠をつけた。
新聞で彼の文面に目を通して驚いた。ほとんど取材した形跡が文面に見当たらない。かつての記事の書き直しだった。平成をつけるならば当然出るべき人物の名前、出来事、場所には一切触れられていなかった。
現地に行くこと、本物に触れることのすばらしさを教えてくれた彼でも、ジャーナリストのいろはを忘れれば、こんなひどい読み物を生み出すのかと愕然とした。
残念なことに途中で連載は終わった。年齢のせいとは思いたくないが、現地までいくこと、
人々の話を聞き無味無臭でいながら興奮するような記事を書くのが億劫になったのかも
しれない。
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