第九十二回 いけばなは可愛くていい
最近外部の人と「いけばなの今後」について話す機会がある。その方達のいけばなへの提言を 聞いていていると、たまに危惧を感じることがある。知識も社会的な立場もお持ちの人なので、
はっきり言いにくいのだがいけばなを勘違いされていると感じる時がある。彼らはなんという か、もっと大きくド派手にしよう!という考えをお持ちのようだ。話しているとマスコミ受け
のいい作品になるよう誘導されている気になる。
いけばなは可愛くていいと私は思っている。地味で小さくて結構、それで充分な存在だと思う。 縁あってお稽古する花材と出会い、自身の技をみがく、でき上った作品を見る。
そういう、日々のささやかな喜び・驚きの積み重ねがいけばなである。
本質を見誤ってはいけない、と思う。
外部の人の意見は私の耳目を開いてくれることもある。しかし巨大な、エキサイトな存在に、 いけばなを変貌させていくことには警戒する。いけばなは飛び跳ねて聴くコンサートではない。
絶叫するスポーツ観戦でもない。
どちらが良いとか優劣の問題ではなく、興奮の質が違うのだ。いけばなの興奮はじわじわと湧き起こるような興奮だ。静かで深い一生を決定してしまう様な感動である。
それは外から見れば何も起きていないように写るかもしれない。いけばな未経験者には理解しがたいものかもしれない。時間をかけてゆっくりした、しかし確実な変化をもたらすのがいけばなである。
小さな日本の家に飾るのは、小さいいけばなが似合う。サイズは小さくても妥協しない技術を注ぎ込む。日本のいけばなの良し悪しは大きさではない。上手いか下手かだと思う。流派ごと個人ごとに上手・下手はあるが大きい小さいは私にとっては関係ない。小さくても周りがひるむような作品がある。本物の感動は案外日常にひそんでいる。
「あっ可愛い!」という言葉はどんな意味だろう。色や大きさが関係する場合もある。予想と現実のギャップは意外性の驚きとなる。意外性のある驚きは人々、とくに女性に可愛いと思わせるようだ。コーディネイトも可愛いにつながる。
両の手のひらに包むようにしていける。植物を慈しむ心は可愛いと同義語となる。可愛いと思う心がいけばなを永年発展させたのだろう。
北条先生のいけばな造形大は、いけばなを志す者に現代美術を紹介する功は成したが、いけばな芸術というジャンルの確立を急ぐあまり(結局確立しなかった)可愛い健康的な作品を排斥するという面があったことは否めない。逆に現代芸術関係の意見・人間を重用した。
私と同学年に現代美術作家K氏の娘がいた。北条先生は彼女を特別視した。必死になって現代美術のイロハを講義した。同じ学年の私は得したと言える。しかし彼女にとっては聞きなれた話らしく詰まらないようだった。ある日彼女は「私、来月からカルチャーセンターの茶花教室に行くわ。いけばななんだから美術を真似しなくていいのに」と言った。そして退学した。
私にとって衝撃的な出来事だったし、一言だった。現代いけばなは美術界の方ではそう見ていたのかと初めて知った。欧米人のファッションを真似しても欧米人なりきれない日本人のようで急にかっこ悪く見え始めた。
私たちは、いけばならしいいけばなを、いければいいのかもしれない。
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