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第九十四回 曇りの日に思うこと


 ある一定の年齢まできたとき、自分のおさない時間の中で、欠落した部分があることに気づく。
 親友との思い出、大事な人との約束。私も全ての記憶を抱えたまま大人になった訳ではない。手のひらから水がこぼれるように取りこぼしてきた。
 それは埋まらないパズルのように、治らない傷跡のように、なにかのきっかけでふと思い出す。

 私には追憶の中でしか会えない人がいる。乳母というか住込みのお手伝いさんというか、幼いころ世話になった人だ。何となくガサガサした人だった。上品ではなかった。母親とは違う印象だった。
 私が生まれたころの写真には、すでにその人が写っている。だから私が生まれる前から働いていたのだろう。

 幼いとき私はいたずらばかりしていた。親と一緒にいられない不安が、よりひどい行為になっていった。家元教室にはめったに入れてもらえなかった。
 その頃の家元教室は一階の手前が教室に設えてあった。自宅は奥に押し込まれるように建てられていた。 私は奥の自宅に、祖母とその人と弟でいることが多かった。家族でも祖父、母、父は日向にいて、私達は日陰にいるようだった。
 家族が奇妙な二分構造になっていた。 人前で忙しく立ち働いてきた分、家での両親は不機嫌だった。些細なことで叱られた。祖父母は優しかった。祖父母が別宅に帰ってしまうと私の居場所はなかった。小学生の時にひとり部屋を与えられたことは大きな喜びであると同時に、寂しくもあった。

 明け方、目が覚めてしまい眠れないがあった。私はその人の所に行き、1時間くらい一緒に寝た。普段はガサガサしているのに明け方のその人は優しかった。親子でもないのに安心して眠れた。その人も嫌がらずに一緒に寝かしてくれた。人の温かさが不安を取り除いてくれて深い眠りに落ちた。昼間、ガサガサした人に戻った。私は言うことを聞かなかった。さんざん手間をかけた。それでも早朝起きてしまうとその人の布団で寝た。
 何にも遊び道具がないときは、その人が空き缶の両側に穴をあけて紐を通してくれた。カパポコと低い竹馬のようなものを作ってくれた。それでいつまでも遊んでいた。

 小学4年のとき、急にその人がいなくなることになった。故郷に帰ることが決まった。私はずっといてくれるものと漠然と信じていた。その人がいなくなるとは夢にも思わなかった。両親に上手に甘えられなかった分、その人が去ってしまうのは恐怖だった。

 その人は最後の日に色鉛筆をくれた。ピンクの紙箱だった。私は少し使ったが、あまり手を付けなかった。引っ越すたびに持ち歩いたがそのうち見失ってしまった。
 私はその人からソーセージの炒め方を教わった。朝食にソーセージの炒め物とご飯があればしのげた。火を使うのは初めてなので怖かった。けれどその人の教えられたとおりに作った。その人の味がした。

 その後、一度くらい訪ねてきてくれるか待っていたがそれきりだった。
 その人がいなくなった日、晴れていたのか雨だったか思い出せない。
 ただ曇りの日にふとその人を思い出すことがある。もう連絡先も何もない。どうしているか知るすべもない。
 欠けたパズルは欠けたまま、消えない傷は消えないままである。

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