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第九十六回 主人公はいらない


 マンガの原作者が話していた。漫画家と意見が対立した時の解決法として主人公を死なせるらしい。私には思いもよらない方法だった。主人公が死ねば物語は終わらずを得ない、と彼は言った。
 でも私は何か釈然としなかった。当時の読者としては横やりが入って楽しみを奪われた気がした。主人公が死ぬのは構わない。読者としては主人公がいなくなった後の物語も気になるのである。あのあとライバルはどうなったか、後輩は育ったのか…疑問は残ったままだ。
  かつて従順だった漫画少年は年をとり、中途半端に世の中のことが見えようになった。40も半ばを過ぎれば、利権やプライド、圧力、競争で文化が成立していることも知っている。
 今だから、当時の編集者に言いたい「主人公が死んだからって物語を終える理由にならない。主人公はもちろん好きだが、それ以上に物語が好きだ」
 同じことをバンドマンにも言いたい。「ボーカルがいなくなったからと解散する理由にならない。ボーカルはもちろん好きだが、それ以上にバンドが好きだ」


 中心人物を失うと、すべての動きを止めてしまうことがある。私にはとても不思議な感覚である。 中心人物がいなくても周りは相変わらず活動している。明日も明後日もその次の日も、周りの人々は生きて、食べて、笑い、働く。日々の生活がある。


 私の人生に私という主人公はいらない。私は家元であり夫であり父であるが、対象の人々にとっても有用な脇役でありたい。
 私は与えられた業務はできる範囲で努力するタイプだと思う。団体に所属すれば、認められて役職に就くことも多い。しかし私が主人公と考えることはない。「今、このポジションに就くことが組織にとって有益であるかどうか」を判断基準にしたい。私がその役に就くことで組織が活性化し、人々にとって有用であるならば迷わずに就く。
 一方でその組織は、私がいなくなったあとも回転していくかを考える。私のポジションでいつまでにどの程度の成果が上げられるか考えると同時に、次の人にどのタイミングで委ねればいいかを意識する。役職というのは実績の上に成り立つもので、しがみつくものではない。そのために代替わりという考え方がある。


  平成26年、夏祭りの役職を長男にゆずった。大学1年の男の子には早すぎるのではないかと内外から批判が出た。しかし私は押し切った。私は他町会や同好会の取りまとめをしていた。神社への宮入も町会の代表として立ち会った。その一方で同好会の取りまとめは後進に譲る根回しをした。宮入の会も正式に神社組織となり地元町会役員が代表に選ばれた。  私がやるべき仕事は全てした。あとは代替わりである。結果うまくいったと思う。町会の年齢別人口を考えれば、若い担ぎ手が一人でも欲しいはずだ。
 お祭り以外でも若いころから続けてきたポジションが、そろそろ委譲する時期にきている。
 そうするとまた年齢に見合った仕事や役職が舞い込む。

 私が家元になったのは40歳の時だ。長男が順当に育って継ぐならばあと21年。父の寿命を基準に考えればあと24年。どちらにしてもまだ長い年数を守っていかねばならない。しかし生涯家元を務めるなどと大それたことは考えていない。おおよそそのくらいの年数かなと思う。


 家元交代には2つの場合がある。生きているうちに襲名することと、亡くなって
から襲名することだ。
 桂古流では祖父から父の時は生きているうちに襲名した。私は父が亡くなったので継
いだ。どちらの方法も大変だと思う。
 先代が生きて襲名できるのはありがたいのと同時に、プレッシャーもかかると思う。
 親がいなくなって襲名するのは、実感として本当に苦労した。
 息子には迷惑かもしれないが、私が生きているうちに譲りたいなと思う。家元は永久
に主人公ではない。時代が変わったら新しい流派の主人公がいい。

 

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