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第九十七回 日々、花に埋もれていく


 当たり前といえば当たり前なのだが、家元になってから私の生活は、ほぼ花で埋まっている。
 それも年々比率が上がっている。いけばな以外は、走ることと寝ることのみのようである。
 家内と長男が異口同音に言っているので間違いない。
 ここ数年で気づいたことなのだが、私は古典花を極めるために生まれ育てられたらしい。今さら何を当たり前のことを、と思われるかもしれない。が当事者にしてみれば、よくもまあ工業製品のようにシステマチックに育てられたこと…と父親の几帳面さに改めて感心してしまう。

 私の人生は、桂古流の家元となるように設定されていた。祖父、父と違い生まれた時からレールが敷かれていた。家元になるために必要な課程を人生の中で歩んできた。いわば専門のベルトコンベヤーに載せられたような人生だ。要所要所で一流の人と出会い、薫陶を受けた。私が家元という“製品”になっていく過程だった。
 一見関係のなさそうな伊勢丹への就職も大事な行程だった。現代を貪欲に取り入れる姿勢を学んだ。接客を通じ会話の楽しさを知った。いま、お弟子さんと楽しく会話できるのは、伊勢丹の接客のおかげである。大人になっても恥をかくことを恐れなくなった。お蔭で分からないことを尋ねることが平然とできる。伊勢丹が京都に出店してくれたおかげで、出向した上司を通じて関西の先生とも親しくなれた。
 一つでも欠ければ今の私の古典花にはなっていない。

 古典花を好きになるようにしてくれた、家庭環境に感謝しなくてはいけない。いけばなは、嫌いでは継ぐことはできない。「無理して継がなくていい」が父の口癖だった。祖父からも父からも強制されたことがなかった。私は私の意志でこの世界に入った。私の中核には、自身の意志で入った自信がある。この仕事が好きだ、なれて良かったと思う。生まれてから一度もお花をいけるのが厭だとかつらいとか思ったことがない。

 そして人前に出せるまでに上達した。図々しいが、そう思う。ここまでお花が好きだというのは、それだけ恵まれた環境に育った証拠だ。取り立てて何の才能もない私が、古典花には本気で努力した。生まれた時から古典花に接する機会を作ってくれた祖父、父に感謝しなくてはいけない。祖父や父の活けている姿勢、鋏の音、ハズのかけ方が生活の中にあった。古典花を活けるべく毎日の暮らしが花とあり、古典花の中に埋もれて育ってきた。

 その目で見ていると、自身の花にも厳しくなる。周りに褒められても納得できない。「オヤッ」と思い、許せないことがある。周りから「そんな微細なところ、仕方ないじゃないですか」と言われる。
 けれど、そういうレベルを私は求められているのではない。私は祖父、父レベルになってはじめて認めてもらえる。褒めてくださっている方には祖父と同じに見えても、私自身には全く別物に写る。自身の作品の線の交差や、余分な所が私には見えてしまう。どうすれば良いかも分かる。活け終ったあとはいつも苦しい。私が苦しいと思う分、上達したのだろう。
 今まで私に関心のなかった記者から称賛された。私を歯牙にもかけなかった人から妬まれる。
 私にも桂古流歴代の才能が宿っていたのだと、安堵し誇らしくなる。

 ここまで恵まれていると、まだ私には努力が足りないのではないか、という恐怖が生まれる。今まで順調に人生を歩んでこられた分、残りはひどく困難な道のりのような気がする。私はあせっている。私が納得のいく形に、私の古典花を一日も早く仕上げたい。
 完成に向かって、多分8割はできている。48歳で8割は悪いペースではない。“製品”にしていただいたおかげで比較的楽に進めた。アスファルトの歩道を車で走るようなものだった。
残りの2割は頂きに向かう岩肌の剥き出しになった急斜面を、足で踏みしめていくような予感がする。その2割を7年で何とかたどり着きたい。55歳で完成したい。いかなる花材・スタイル・花器でも揺らぐことのない古典花を活けられるようになりたい。何とか間に合いそうな気がする。今までもこれからも活けて活けて活けていくしかない。
 私の微細な狂いは、活けているときにまだ人だからだと思う。私が人として考えながら活けている間は、だめだと思う。祖父や父は考えていなかった。私も考えるのをやめ、草木と同じ自然物になれた時、歴代家元に追いつける。花に埋もれるような環境で歴代家元に追いつけなかったら私が怠惰ということだ。

 

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