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第九十九回 あこがれた町

  私の思春期に総理をしていたのは中曽根康弘だ。1982年から1987年である。対米輸出や内需拡大が始まった。明日が信じられた時代だった。みんな浮かれていた。中曽根康弘と青春と明るい未来は一直線に並ぶ。
  明るい未来は東京のおしゃれな街に行くことだった。なんだか分からないけれど、そこに行けばとてもいいことがあるような気がした。そう考えると当時の私は、必要な情報を得て生活している現代の若者より相当幼稚だった。

 浦和というのは中途半端な所だった。一応東京には行ける。宇都宮・高崎線で上野に出られ、京浜東北線から山手線にも乗り換えられる。しかし便利になったのは最近だ。
 国鉄は大宮が主になっていた。むかし宇都宮・高崎線は午後3時から浦和駅に停車した。信じられないことだが朝は通過した。混みすぎるから浦和は飛ばされたのか。とにかく昼過ぎまで虎ロープが張られホームまでの階段を登れないようにしてあった。中学生の頃に始発から終電まで宇都宮・高崎線がとまるようになった。とても便利になった。駅前商店街が喜んでお祝いの饅頭か何か配っていたように記憶している。
 埼京線は私が高校3年に開通した。それまで赤羽池袋間は黄色い赤羽線、大宮高麗川間はオレンジの川越線という全く別の線だった。大宮赤羽間をつなげ、埼京線とする話を聞いたときは本当に興奮した。埼京線に乗れば池袋新宿間が直通というのも嬉しかった。大学は浦和から池袋を通って江古田まで行った。伊勢丹社員の頃は浦和から新宿だった。宇都宮・高崎線に乗り赤羽で埼京線に乗り換えるということを19歳から24歳まで6年続けた。

 便利になっていくようで鉄道のない東京の「奥」には行くことができなかった。
所詮私は「駅」のある所までなのかと、もどかしい思いをした。浦和から目的地までの鉄道のアクセスはわかる。終電さえ調べれば問題ない。一方バスや徒歩などで都内を移動することは苦手である。地下鉄もランドマークもない場所は自分がどこにいるのか分からない。自分の限界点を知らされているような気がした。

 あこがれている町へは情報のみで空想するしかなかった。中学生の頃からぴあマップなどはあこがれの町探しのために見ていた。田中康夫や泉麻人などが書いているコラムを読んだ。「どうだ、埼玉のお前は来られないだろう」と見下されているように感じた。六本木を中心とした半径2キロメートルにコンプレックスを抱いた。飯倉片町・狸穴・外苑前・南青山・乃木坂・元麻布・広尾・代官山・白金台などなど。いまでも行き方が分からずドキドキしてしまう。麻布十番から有栖川公園までなど完全に迷子である。ホテルオークラから赤坂御用地も空想の世界である。飯倉から芝増上寺に辿りついたり、外苑前から信濃町にくるとホッとする。

 どんな美しい街なのだろう、あか抜けたお店に、きれいな服を着た人々、美味しい料理…と想像を膨らませていた。
 パイドパイパーハウスは南青山にあったレコード店だった。おしゃれなレコード店として名を馳せたものだ。南青山なんて浦和の私が行ったら罰が当たりそうで、結局行けなかった。いろいろ調べても躊躇って行動に移せなかった。

 結局は鉄道でいける所となる。落ち着くし、何となく馴染みがあった。
原宿・新宿・池袋にはそれぞれ思い出がある。原宿は家内と結婚する前後に穏田神社の一角を借りて出稽古した。新宿は伊勢丹勤めで歩き回った。池袋は学生時代に入りびたった。
安心して歩けた。自分がどこにいるのか考えずに、遊んでいられることがありがたかった。

 いまでは宇都宮高崎線が、湘南新宿ライン上野東京ラインという形で発展した。東京、渋谷、恵比寿、品川、さらに横浜、熱海まで直通列車で行けてしまうのは本当にありがたい。浦和駅前も進歩した。伊勢丹、パルコに加え駅のアトレショップも充実してきた。ネットショッピングで大抵の物は手に入るし困ることはほとんどない。

 しかしあこがれた街は今も手が届かない。私には辿りつけない空想の街である。

 

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