活け花コラム

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2026.05.12

最後の一瓶は何を活けるか

最後の晩餐に何を食べたいか?と尋ねられたら皆様は何と答えるだろう。お肉かお魚か甘い物か、思い出の母の味、あの店の料理などなど。もう一度食べてみたい物が頭に浮かぶだろう。

では、最後の一瓶は何を活けるか?と尋ねられたら如何しよう。

私はどうしても頭から離れない一言がある。

平成4年4月、私は新藤花道学院に就職した。就職とは言いながら、生徒様のお花代を預かったり、出稽古に行ったりするくらいだった。後は祖父初華盛のお見舞いに市立病院へお見舞いに行くのが日課だった。24歳の時だ。

祖父は平成3年春の叙勲で七等から五等に叙せられた。同時期にすい臓がんが見つかり、既にリンパに転移していた。そのため祖父は病室のベッドで叙勲の知らせを聞いた。同年夏に女子医大で手術した。その前後に、父、華慶への家元禅譲を決意したらしい。祖父は小康状態を保ったものの、平成4年春には再入院となった。

平成4年春の日本いけばな芸術展に出品した蝦夷松が、祖父の絶作となった。この作品は一時退院した祖父が下活けをして、父が会場で活け上げた。祖父のお生花が日本橋髙島屋に展示されるのは、恐らくこれが最後かと思うと胸が潰されそうな気になり自然と目が潤んだ。桂古流の生徒様も皆、作品の前で泣いたらしい。

上記の様に悲喜こもごもの平成4年春だったが、私の生活に大きな変化はなかった。日課である市立病院に行くと、いつも穏やかな祖父がいた。私は祖父が華寿の時に生まれた孫なので、祖父は85歳になっていた。大柄で頼りがいのある身体は、いつの間にか薄く儚げになっていた。祖父は窓の外の夕暮れを眺め「ああ、あの桜、きれいだな。活けてみたいな」という。三室の病院から見える桜は、晩春の夕陽を浴びて音も立てずに散り始めていた。主治医は私に「巨木が少しずつ枯れるように…」と死期が近い事を告げた。5月5日の家元継承披露宴で、祖父は立派に挨拶し、食事もした。まるで不死鳥のように蘇った。祖父にとっては力を振り絞って父に家元を継承することが、最後の大仕事だったのだろう。継承式が終わると遡上した鮭が産卵を終えたように、安堵して衰弱した。

不謹慎にも私は幸せの絶頂にいた。京子と付き合い始め、毎日が楽しくバラ色の日々だった。そのバラの花びらに一点の斑のように、祖父の病状は思わしくなかった。京子と結婚したいと思い、祖父に一目合わせようと病室に連れて行った。祖父は静かに横になっていた。それでも会わせることができて嬉しかった。     

祖父の「ああ、あの桜きれいだな。活けてみたいな」は目の前の桜だったのか、それとも今まで活けてきた花材の総称なのか分からない。

さて、振り返って祖父の桜といえば、天の川だ。天の川は商品名で、今でも活ける方が多い。撓めが効き、水揚げも良いと祖父は気に入っていた。『華盛の生花』にも掲載されている。そこまで祖父が褒めるならばと、活けてみたが、私には難しい花材だった。私が家元になった頃から、啓翁桜が幅を効かせてきた。最初は「正月早々桜が出荷されても…」と戸惑う声も聞かれた。しかし、マーケティングが上手だったのか、いつの間にか桜の主役に躍り出た。私は天の川より啓翁桜の方が性に合うので、展覧会や研究会でも啓翁桜を使う。

私は最後に何を活けよう。何を見てもらおう。埼玉県展で認められた桜の三重か、雅叙園に活けた杜若の八橋活けか、流展で十一管活けをした水仙か、増上寺に活けた菊か、棕櫚か、葉蘭か、金雀枝か。花材が徐々に限られている現代で贅沢は言えない。季節により花材は変わるから、手に入るかも分からない。ぼんやりした予想なのだが、シンプルな、非常にシンプルな立活けを活けそうな気がする。基本に忠実な、外連味の無い、当たり前すぎて記憶に残らない程、教科書通りの立活けを最後に活けそうだ。もし許されるならば、その詰まらない基本の立活けで、祖父の絶作の蝦夷松のように、見る人を立ち尽くさせ、泣かせてみたい。

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